不浄霊

軽はずみにした事をつくづく後悔した。
まさかあんなところでそれに出くわすなんて、夢にも思わなかったのだから。

念願のリラクゼーションの仕事にもやっと就く事ができた。
やっぱり人を心身共に癒す仕事ができるなんて素敵な事だと思う。
実家通いでは少し遠くて、それに場合によっては夜も遅くなる事だってあるので職場の近くに部屋を借りる事にした。
自分でお家賃を払ってひとりで生活していくって、それは確かにたいへんな事だけど
何もかも自分に合った真新しい生活ができるなんてそれこそ素敵な事だと思えた。
それにそれに・・・マンションのすぐ下に駐車場があって
ローンだけど欲しかったかわいいミニバンまで購入する事ができた。
理想の仕事に就けて理想の生活を作ってゆく事ができる。
私ってなんて幸せなのだろうかと、つい有頂天になっていたのだと思う。

それは実家から帰宅する道すがらの事だった。
私はペーパードライバーだったのでミニバンのハンドルを握る手も十分に注意して走っているつもりだった。
マンションに向かう道は幅も狭く見通しも良くない。
少し大きな車と出会ったならば、上手く交すのがどうにも苦手なぐらいの狭い道を通って帰る。
もちろん徐行に等しいような速度でゆっくり侵入する。
それがたまたま街灯の影とか、あるいは標識に目がいっていたのかで人が立っていた事に気づかなかった。
助手席のほとんど真横にきてから「はっ」とそれが目に入ったのだった。
あぁ危ない!
私は比較的左側に寄って車を走らせる傾向があるので、
その人がもし何かの拍子に身じろいでいたりしたならば
確実に引っ掛けていてもおかしくない状況だったのだ。
そんなところに呆然と人が立っていた事にもびっくりするけど、この状況に直面していつまでも胸が高まる。
車を運転していて初めて「怖い」と思った瞬間だった。

しばらくして冷静に思った事だけど、その人はちょっと変だったような気がする。
思い起こせばよくは見えなかったけど黒髪の女性でなんていうか、
スリップみたいな下着姿のままで外を歩いていたように思えてきた。
それにそこまではよく見えていなかったけど、どこか乱れたような印象がふと蘇る。
何か困っているんじゃないだろうか?あるいは犯罪にでも巻き込まれているんじゃないだろうか?
路肩に車を停めて振り返ってみたけど、もうすでにその人の姿は見えなかった。
こんな狭い道路で面倒だなとは思ったけど旋回して、来た道をまたゆっくりと戻ってみる。
私にはただの面倒かも知れないけど、その人には生き死にに関わるような窮地かも知れない。
それでその人が立っていたであろう場所まで戻って来てみた。

そこにはすでに誰もいない。
車から降りて辺りにその姿を探してみる。
しんとした夜道にエンジンの音が低く回っているだけだった。
ここまでの道は一本道で曲がり角はないはず。
こちらに向かってきたならば確実にすれ違っている。
大通りの方に向かって行っちゃったなら、もう仕方ないかと私はしばらく進行方向に車を進めたのちにまた旋回して帰宅した。

真夜中に耳元で大きな声を聴いてふと目を覚ました。
夢を見ていたのだろうか小学生の頃の同級生が当時の姿のままで叫びかけたように思う。
驚いて辺りを見回せば間接照明のやわらかな明かりに照らされた私の部屋の中だった。
(何なのよ。夢のくせに脅かさないでよ・・・)
ランプの反対側、ベランダのすぐ脇。あの女が呆然と佇んでいたのだ。
目が釘付けになって動けない。
金縛りとか、そんなんじゃないただびっくりしてそこから目が離せないでいた。
何だか分からないけど尾けてきちゃったんだ。
警察・・・警察・・・
ベッドから半身起こしたままでスマホを手繰り寄せて110番しようとするけど、110番が押せない。

「はい、こちら110番です。どうされましたか?」
「あの・・・あの・・・変な人が・・・」
「もしもし、ゆっくり話してください」
顔を上げると女は消えてなくなっている。
少し目を離した隙に部屋のどこかへ移動したのか?ベッドの脇にでもいるんじゃないか?
いくら見渡しても、もうその姿はない。
「もしもし・・・」
「あ・・・すみません。間違いだったみたいです」
ドアを開いて玄関の方に逃げたとしたなら、その音で分かる。
ましてや真横をすり抜けて気づかないはずはない。
それも夢の続きだったのだろうか?
のそりと起き出すと私はもう一度部屋の中を見渡した。
やはり誰もいない。
だいたい私もおかしいのだ。
もしあれが変な人だったらベッドの上で110番通報などしている間に殺されてしまったかも知れないのだ。
よくよく見渡しても狭いワンルームの部屋に女の姿はなく、
それでも気味が悪いので私は情けなくも車の中で朝を待った。

それからも時々女は部屋の中に姿を現した。
スリップ姿というより、よく見ればちょっと昔の女性下着とかネグリジェみたいなものを身に着けて立ち尽くしている。
よくよく見るとむき出しになった肩とか、膝などにアザのようなものをたくさんつけている。
顔を上げないので目は見えないけど、
どこにでもいるあの典型的な幽霊みたいに顔全体を髪が覆っているという風体でもない。
女は次第に真夜中だけではなく帰宅したときにもそこにいたり、
ふと顔を上げるとそこにいたりするぐらい図々しくなった。
だからといって特に何か危害を加えてくるとか、私の体調が悪くなる。
あるいは良くない事が起こるといった事もなく
私はそれを除けば平穏無事に暮らしていた。

「あのさ、迷惑だからいちいち起こさないでくれる!?」
私もだんだんそれに慣れてしまって真夜中に目を覚ました時に文句のひとつも言ってやったりした。
それからはふと目を覚ましても女の方には一瞥もなく、また眠りに戻って行くような日々が続く。
どういうのだろう?よほど気に入ったのか何も言わず何もせずに私の部屋に住み着いている。
私だってせっかく手に入れたこの生活をそう易々と引き渡すつもりはない。
危害がないのならば放っておいてもどうって事もないんじゃないか?
それどころか私の方は仕事も体調も順調で、まだ経験も浅いのに先ごろチームリーダーにまで選ばれた。
それに仮にもここを引っ越すとなれば一年間は住む契約になっているので違約金として、
家賃一か月分の8万余りを支払わなければならない。
車のローンもある事だし、そんな出費はとても賄えないのだ。
もちろん引っ越し代だってかかる。

「・・・でね、それが何言ってもぜんぜんスルーなのよ」
「ウソ!ウソ!本物の幽霊!?」
気晴らしにと友人と飲みに出かけた時に私は思い切って彼女の話をしてみた。
お酒の上でのよもやま話なのだから、ちょっとへんな事でもなんでもいい。
「今もいるの?」
「いるわよ、たぶんね」
「見たい!見たい!幽霊みた事ない!」
そこまでどうしてもと言うのだからその夜、友人を部屋に泊めた。
部屋には場所をとるセミダブルのベッドひとつしかなく、予備の寝具などもない。
仕方なく、女同士ひとつのベッドで枕を並べて眠る。
「女同士で一緒に寝るなんてちょっと気持ち悪いわね」
「我慢しなさいよ、アタシだってイヤよ。ちょっと、お尻くっつけないでよ」
「アンタいいケツしてるわね!何だかハリがあって垂れてない・・・職業柄?自分で施術なんかするわけ?」
「まさか、自分で・・・するわね。お風呂入った時とか」
「ねえねえ、ちょっとしてよタダで」
「イヤよ、アンタのお尻なんか触りたくないわ。お店に来てくれたら友達割引してあげる」
私にはあっちの気はないけれど、修学旅行みたいでそれはそれで楽しかった。
私には女の姉妹がないから女同士で眠る事など、そうはない事なのだった。

「ねえ、ねえ、起きて・・・起きて」
「ん、何?」
「アレ何?あれ?」
「あぁアレ?だから幽霊・・・」
友人はいまさらながら明らかに血の気を失っている。
まあ、初めてみたときは私も確かにそうだったのだ。車の中にまで逃げ込んでガタガタ震えてた。
「も、盛り塩よ、盛り塩っ!!それと何だ?お経とかなんか・・・」
友人は飛び起きてキッチンへ向かい、ガチャガチャと何やら暴れだした。
何事か?とみていると私のお皿の上に塩を思いっきりひっくり返して「どうぞ召し上げれ」とばかりに佇んでいる。
何だか分からないけど盛り塩を作ってきて、怖くて彼女に近づけないでいるのだ。
仕方ないから私はそれを彼女の足元にそっと置いて、
友人をベッドの中に引き戻すと震える背中を抱いてやりながら眠りに戻った。

「あらあら、こんなに居心地よさそうにしちゃって・・・」
あの夜から、しばらくの間友人との連絡は途絶えていた。
もともと思い出したように時々連絡し合ったり、
たまに食事に出かけたりお酒を飲みに出たりの関係だったから、特にそれは不審に感じるほどの事でもない。
しばらくして連絡があって、なんだかいわゆる「見える人」がいるので
観てもらおうという事でひとりのおばさんを連れてやってきた。

「何て言ってます?」
「分からないわ、何も言わないもの。私はこれを生業にしてるわけじゃないし」
友人の叔母さんの知り合いでお寺の家に生まれて子供の頃から変なものが見える力があるという人だった。
「傷だらけできっと辛いところにいたのね。あなた優しい子でしょ?だから付いて来ちゃったのね。
お部屋も綺麗に片付けてるし、お塩のせいで空気もこんなに清められてるわ」
「このままで悪い事ってありますか?」
友人が聞いた。
その時には私にも友人にも彼女の姿は見えていなかった。
「さあ、どうかしら?今まで何もなかったのだから・・・私もこんなケースは初めて見るの。
実家のお寺じゃ、こんな安らかな仏様も時々いらしたけどね」
私は人に癒しを与えられる人になりたい気持ちで今の仕事を選んだ。
お部屋だって気に入ってて、友人が作った不細工な盛り塩は目障りだけど、
家具も生活用品もなるべく少なく綺麗にしている。
そのおばさんが言うのには優しい気持ちと快適な部屋に憑りついてる変わった霊なのだそうだ。
もし、どうしても追い出したいならば逆に部屋を散らかせばいいのではないかという。
とかした髪をそのまま床に撒き散らしたり、生ゴミを出さずに部屋の中に積み上げたり、第一掃除をしない。
それから、女の立っている方にむけてオナラをするというのもいいというのだ。
霊というのは基本的に生きた人間の不浄のものを嫌うらしい。
ましてや女の子がおもむろにオナラなどすると綺麗好きな幽霊だったら堪ったもんじゃないという。
自分だけの部屋なのだからオナラぐらい普通にするけど、たとえ幽霊とはいえ人に向けてするのは気が退ける。
そこで気がついたんだけど、いつか結婚して未来の旦那様と暮らすようになったら
オナラはどうすればいいのか真剣に悩む。
別に居続けたからといってどうという事はないと思うけど、いるよりはいない方がいいような気がする。
それに除霊というものができるのかどうか試してみたい好奇心もあった。

かくして、もう部屋の事なんかどうでもよくなった。
あえていうならば、違約金の8万円がただ惜しいだけ。
部屋の中は異臭がただよって床には食べ物のカスとか髪の毛が散乱している。
時折、急いで土足のまま忘れ物を取りに戻ったりもするので砂まで上がっていて歩きづらい。
愛車の中だけは綺麗だったけど、それもだんだんと余計なものばかりで散らかってくる。
仕事もプレッシャーが重くてどこか人間関係がキクシャクして、あまり気力もなくなってきた。
そろそろ疲れてきたのと飽きてきたの両方なのだろう。
半ば忘れていたほどの事なのだけど、彼女もいつの間にかすっかりその姿を消してしまった。
除霊なんて、もう本当にどうでもいいのだ。
そのうちにガタリガタリという音に目を覚まし、ずっと洗ってないシーツの上に体を起こす。
見れば以前は彼女が佇んでいたあの場所に小柄なお婆さんが背中向きで何かガサゴソやっている。
灰色に格子模様?何か薄汚い割烹着みたいなのを着けて、髪はザンバラに乱れたまま気にも留めない。
きっと気がおかしいのだろう・・・
幽霊に正気も何もあったもんじゃないのか知れないけど、ともかくまた変なのが来た。
前の女はただそこにいただけで物音ひとつ立てる事なかったけど、今度のババアはうるさい!
それに左の肩が慢性的に痛いのも、きっとこのババアのせいなのだろう。
ああ、もういいや面倒くさい。
きっとまた今度は綺麗にすれば出て行ってくれるかも知れないが面倒くさいのだ。
そうこうしているうちにやせ細った子供は「あっ!!」とこっちを指さす行為を繰り返し、
姿のはっきりしない長身のハンティングキャップを被った男性がコツコツと一晩中部屋の中を歩きまわる。

実家に泣きついてお金を借りて私はついにこの部屋を引き払う事にした。
もう、いろいろするのが面倒くさいし、
職場から少しばかり遠くはなるけれど車があるから大丈夫だろう。
いい環境だったし、気に入ったお部屋だったけど本当にごめんね。
新居に移ったら、また神経質なほどきれいに片付けて快適な生活ができるように努めるしお客様、職場の人、上司の気持ち。
これを機に他人の気持ちがちゃんと汲めるような人間になれるよう努力したいと思うのだった。

ただ、やはり気になるのはあの女の幽霊はいったいどこから来て、どこへ去ってしまったのだろう?
また、こんな風になる前に彼女がここに居続けていた場合。
最終的にはどうなっていたのだろうか?

朗読: 【怪談朗読】みちくさ-michikusa-
朗読: 思わず..涙。

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