由紀さんは早くに父親を亡くし、
一人で育ててくれた母親の有り難みと苦労を子供を持ってからつくづく感じるようになっていた。
結婚してからは、車で十五分程の所に居を構え、週に一〜二回の頻度で実家に帰っていた。
母親は一人暮らしではあったが、
実家の隣には、母親の妹である叔母も住んでおり、特に心配する様なこともなかった。
その日もいつも通り、車で上の子供を幼稚園に送り届け、その足で下の子供を連れて実家へと向かった。
実家の駐車スペースに車を停めていると、隣家からお菓子を手に叔母が出てきた。
一緒にお茶でも飲もうという事らしい。
「さっきも一回来たんだけど、姉さん、寝てたから、声を掛けなかった」
他愛無い会話を交わしながら、ガラガラと玄関の引き戸を開ける。
田舎の事なので、鍵は滅多に掛けない。
「母さーん、来たよー」
声を掛けながら、家に上がる。
ニ歳になったばかりの子供は靴を脱ぐと、タタッと走って、先に居間へと向かった。
しかし何故か中には入らず、居間の敷居の手前で立ち止まってしまった。
「どうした?」
由紀さんは子供に声を掛けながら、後ろから居間の中を覗くと、母親が炬燵で寝ていた。
下半身を炬燵に入れ、うつ伏せの状態で、右腕が完全に体の下敷きになっている。
そんな寝方では、腕が痺れてしまうのではないかと思われる。少し不自然な寝姿だ。
「さっきと同じ格好で寝てる」
由紀さんの後ろで叔母が言った。
ハッとして、由紀さんは母親に駆け寄り、
「母さん!」と、声を掛けて体に触れると、母親はゴロンと力無く仰向けになった。
が、目を覚まさない。
突然死だった。
唯一無二な母親を失い、由紀さんは失意のどん底へと突き落とされた気分だった。
食事も喉を通らず、夜もなかなか寝付けない。
ふとした瞬間に、急に涙が流れ出す。
出来ることなら、布団に潜り込み、一日中何もしないで泣いていたいと由紀さんは思った。
しかし由紀さんは二児の母である。
彼等はまだ幼く、自分達の祖母の死を理解する事も出来ない。
そして母である由紀さんを頼りに生きている。
彼等の日常と笑顔を守る事は、今の由紀さんの最大の使命であり、
子供達を前にしては、メソメソと泣いてばかりはいられなかった。
由紀さんは悲しみを胸の内にグッと留めつつ、
子供達の世話をしながら、母親の死後の雑事をこなし、喪主として葬儀を執り行い、母親を見送った。
そうして日は過ぎ、明日が母親の四十九日目という夜の事。
由紀さんは、疲れた体を布団に横たえ、フウッと深い溜め息を洩らした。
夫と子供達は、既に寝息を立てて眠りに就いている。
この瞬間が一日で一番ほっとする時であり、亡くなった母親を一番思い出す時でもあった。
四十九日の法要は、少し前の休日に寺で行った。
だから明日は特段何かをすると言う事も無い。
ただ母親の好きだったシュークリームでも買ってきて、仏壇にお供えしようか。
それより明日は、幼稚園の月に一回あるお弁当の日だった。
三十分早く起きなければ……。
そんなことを考えているうちに、由紀さんは何時の間にか眠ってしまっていた。
気が付くと、枕元に母親が座っていた。
母親は亡くなった時より、ずっと若く、死んでいる筈なのに、活き活きとして見えた。
「母さん」
由紀さんは半身を起こし、思わず母親に抱き着いた。
母親も由紀さんをしっかりと抱き留めてくれた。
由紀さんは母親の温もりを感じた。
まるで自分が、幼い少女に戻った気がしたという。
母親は由紀さんの頭を優しく撫でると、
「あっちの世界は、結構良い所だって聞くから、一緒に行こう」
そう言って、由紀さんの手を握り立ち上がった。
手を引っ張られて、由紀さんも母親と一緒に行きたいと思い、立ち上がりかけた時、ふと気になり横を見た。
二人の幼い子供達が、すやすやと寝いている。
由紀さんは母親に尋ねた。
「子供達は、どうなるの?」
すると母親の顔が急に、影が差した様に暗くなった。
由紀さんの手を握っていた母親の手から、すーっと力が抜け、結んでいた二つの手が離れる。
そして母親の姿もまた、すーっと消えて仕舞った。
「夢だと思うけどね」
子供を膝に抱えた由紀さんが言う。
おやつを食べたばかりの子供は、目が半分閉じかかっており、今にも寝落ちしそうだ。
「この話をすると、みんな怖がるんだけど、自分の母親のことだから、私は全然怖くないよ」
眠って仕舞った子供の体を、愛おしそうにゆらゆらと揺らしながら語る由紀さんは、正に幸せな母親そのものだったが、
聞いている私の方は、全身の鳥肌が、なかなか引かなかった。
おわり