最後の一口

私には楽しみがあります。
それは、仕事終わりに最寄り駅から自宅マンションまでの帰り道に飲む一杯の缶ビールです。

その日もいつもの様にコンビニで買った缶ビールをちょびちょびと楽しみながら自宅マンションへと歩いていました。
残業で遅くなった為、時刻は深夜の0時近くを回っていました。
古いマンションが並ぶ、人影のない深夜の線路沿い。
歩きながら飲んでいた缶ビールの残りは1割程度になっていました。
1日の終わり、いつもの缶ビール。
私は最後の一口を飲み切る為に真上を見上げる様にして勢い良く缶を傾けました。

その時、視線の先に「何か」が見えました。
脇を歩いていたマンションの3階のベランダから真下を覗き込む「何か」と目が合いました。
髪の長い女でした。
重力によりだらりと垂れ下がった黒い髪の間からこちらをじっと見つめる無表情の女の顔。
私は、あまりに突然の恐怖に叫び出しそうになりました。
しかし、その恐怖をぐっと堪え、何も見ていないフリをして震える足で自宅マンションへと向かいました。
帰宅後、すぐに頭から布団を被り、そのまま朝が来るのを待ちました。

その日以降、私は帰り道のルートを変え、仕事終わりの缶ビールは帰宅してから飲む様にしています。
あの女は何者だったのか、あのマンションで何があったのか、怖くて調べる気さえ起きません。

今でも何かの拍子に真上を見上げる動作をする時はあの女の顔を思い出してしまいます。

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