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幻視

レビー小体型認知症という病気がある。
脳の中にレビー小体というタンパク質が多くできる事で起こる症状で、女性より男性に多い傾向がある。
アルツハイマー型の次に多い認知症だ。
この病気の大きな特徴の一つに幻視がある。
視えないモノが視えるという現象だ。

瑛子の舅、喜三郎が可笑しな事を言うようになったのは、姑のハルが他界して三ヶ月程経った頃だった。
切っ掛けは散歩中、急に飛び出してきた自転車に驚き転び、足を骨折して入院した時だった。
「首が変な方向に曲がった女が居るんだよ」
病室の奥を指差し喜三郎が言う。
「そこの角の所に、毎晩立ってるんだ」
その女が、物言いた気に喜三郎を見つめ、パクパクと口を動かすのだと言う。
「でも首が折れてるから、上手く喋れないんだろな。
何言ってるのか、全く分からんのだよ」
可哀想な女なんだよ、と少し同情しているようでもある。
しかし喜三郎以外には、そんな女など全く視えない。

「レビー小体型認知症の症状かもしれません」
喜三郎から同様の訴えをされていた医師から、認知症外来の受診を勧められた。
高齢になれば誰でも認知症になる。
優しくしっかり者の喜三郎も例外ではないのだ。
しかし実の息子である夫の浩正は、何故か医師の言葉には懐疑的であった。
「病院なんかにいるから、精神的にまいってるだけだ。退院すれば元に戻るよ」
実際喜三郎は、首折れ女の発言以外、特に認知症の症状は見られなかった。
幸い怪我の治療は経過も順調で、数ヶ月後、リハビリも終えて、喜三郎は元気に自宅に戻ってきた。
そして暫くは、特に変わった言動も見られず、浩正が言う通り、
入院中の発言は、病院という特殊な環境に置かれたせいで起きた
一時的なものだったのかもしれないと、瑛子も思うようになっていた。

ところがある日の夕方、 「少しは体を動かさないと……」と言って、
杖を突いて近くのコンビニ迄出掛けた喜三郎が、血の気が引いたような顔をして戻ってきた。
「どうしたの?具合でも悪くなった?」
瑛子は心配になって尋ねた。
「い、いや、大丈夫だ。ただ、あの病院に居た、首の折れた女が、家の前に居たんだよ。いや、びっくりした」
青い顔で喜三郎が言った。

それからというもの、喜三郎は首折れ女の事を度々口にするようになる。
「あの女は、家の中に入りたいようなんだが、家にはおかあさんが居るから、入れないみたいだ」
喜三郎の言う「おかあさん」とは、亡くなった姑のハルの事だ。
瑛子は急に喜三郎のことが心配になった。
もし認知症だったならと思うと、気が気ではない。
だが、浩正はと言うと、なかなか喜三郎を病院に連れて行こうとはしなかった。
尊敬する父親が、認知症になるなんて信じたくないという気持ちが強いようだった。
「認知症だって、早期発見、早期治療が大切なのよ!もしお義父さんが認知症になったら、誰が介護すると思ってるのよ⁉」
瑛子はキレて浩正に訴えた。
「まったく、うるせぇなー」
浩正はブツブツ言いながらも、有給休暇を取り、喜三郎を認知症外来に連れて行ってくれた。

結果、年齢相応の脳の萎縮は多少あるが、運動機能や認知症テストに問題は無く、治療を受けるほどでは無いとの事であった。
「幻覚の様な物が視えるのは、奥様を亡くしたことによるストレスからくるものかもしれません。
夜、眠れない時の為に、安定剤を出しておきましょう」
医師から問題無しとの診断を受けてホッとした浩正が、
「あまり周りを心配させるような事は言うなよ」と窘めるように言うと、
「そうだな。悪かった」と、喜三郎は頷いたと言う。
それから喜三郎は、首折れ女の話をする事は無くなった。

月日は経ち、ハルの一周忌。
お寺で法要を済ませ、親戚も混じえて、自宅でささやかな宴会を行った。
「おかあさんは、もうすっかりあの世の住人だよ」
ほろ酔い気分の喜三郎が、可愛がっている甥に向かって言っていた。
その表情は、ホッとしているようでもあり、淋しそうでもあった。
夜になり、親戚一同が帰るというので、タクシーを呼び、玄関の外まで見送りに出た。
すると玄関を出た所で、喜三郎が棒立ちになっている。
まるで固まっているかのように、一点を見つめて動かない。
「お義父さん、どうしたの?」
瑛子は変に思い、喜三郎に話しかけた。
「庭の中に入ってきてる」と喜三郎。
「は?何が?」
瑛子は玄関前の猫の額ほどの狭い庭を見渡す。
外灯に照らされて薄暗くはあったものの、変わったモノは何もない。
ステンレス製の小さな門扉を開き、その前で浩正が親戚等と談笑しながらタクシーを待っているだけだ。
「あ、そうか、おかあさんが居なくなったから……」
喜三郎が呟く。
「えっ?」
「あ、いやいや、なんでもない」
喜三郎は慌てたように首を振り、親戚の見送りもそこそこに、家の中へ戻ってしまった。

その後、喜三郎は急に元気が無くなり、間もなく体調を崩して入院した。
数週間後、医師から、高齢でもあり、快復は難しいとの説明があった。
医師との話し合いの後、浩正が飲み物を買ってくると言って病室を出ていった。
瑛子は何もすることもなく、ベッド脇の丸椅子に座り、眠る喜三郎の顔をぼんやりと眺めていた。
最近は眠っている時間が長くなり、食事も流動食を少し食べるだけという。
目が落ち窪み、すっかり痩せてしまっている。
このまま治療を続けるか否か決めて欲しいと、医師から選択を迫られ、浩正はその場で決断する事が出来ず、
「少し考えさせて欲しい」と答えていた。

「ああ、来てたのか」
ぼんやりしていた瑛子は、いきなり話し掛けられてハッとした。
喜三郎が目を開けて、こちらを見ていた。
「色々心配掛けて、すまんかったな」と喜三郎。
「そんなこと気にしないで、早く元気になって下さい」と、返すと、
「うん……」と、喜三郎は力無く頷いたが、
その後、何かを言いた気な様子で、口だけをモゴモゴと動かしている。
「なに?」
瑛子は聞いてみた。
すると喜三郎は、 「もう、心配せんでいいから。俺が連れて行くから……」と言う。
「えっ、なにを?」と、聞き返そうとしたところで、病室のドアが開き、
ペットボトルを持った浩正が入ってきて、そこで話が途切れてしまった。

その日を境に、喜三郎は目を覚まさなくなった。
そして浩正は、治療の中断を決めたのだった。 おわり

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