黄昏は

あれは何時の頃の話だったかと聞かれれば、確か小学校3年生くらいだったと思う。

僕はその時、K県の海沿いの町の、小高い丘の上の住宅地に住んでいた。
住宅地と言っても、曲がりくねった細い道沿いに古い一軒家が所狭しに立ち並んだような場所で、
知らない人からすればまるで迷路のようなところだと思う。  
大きな二車線の道路から小学校沿いの細道に入り、ジャングルジムのある公園を過ぎ、
斜面に無理くり道を打ったような下り坂を行った突き当りの一戸建てに、僕は家族と一緒に住んでいた。

その日、小学校から帰った僕は、何人かの友達と遊ぶ約束をしていた。  
「いつものネギのとこでな!」
僕らが遊ぶ場所はだいたい決まっていて、その日は“ネギの場所”と呼ばれる広場で遊ぶことになっていた。
住宅地の道沿いには石垣の塀がずっと並んでいたのだが、
一ヶ所だけ、子供が二人通れるくらいの隙間が空いているところがあり、
その隙間の通路を抜けた先がひらけた芝生の丘になっていて、子供心にはさながら秘密基地のようにも思える場所だった。  
其処には野蒜(のびる)がよく生えていて、僕らはそれを指して『ネギ』と呼んでいたのだ。
午後三時くらいに僕らは集まり、意味も無しに野蒜を探してみたり
歩くたびに草むらから湧きだすヒシバッタを追いかけてみたりして遊んでいた。  
「なあ、かくれんぼしよーぜ!」  
仲間内の誰かがそう言ったのを覚えている。
その丘には、住宅地の誰かが置いたらしいドラム缶や茂みなどがあり、子供が隠れるには丁度いい場所がいくらかあった。  
「じゃんけんぽん!」  
「あ、勝った!」  
「じゃあ俺が鬼な!1、2・・・」  
かくれんぼが始まり、僕はドラム缶の影に隠れる。  
「もーいーよー」  
僕と他の隠れる役の何人かが叫んだ。鬼が動き出す気配、僕は息を潜めて待つ。
 
隠れ始めてからどのくらい時間が経っただろうか。
十分、十五分、いやもっとかもしれない。
そんな事を考え出すくらいに、僕は長く隠れていた気がする。
ドラム缶の陰で一人じっとしているのに疲れ、僕はしびれを切らして立ち上がってしまった。  
遠くの方から、友達数人が話しているのが聞こえる。
皆、かくれんぼに飽きて他の遊びを始めてしまったのだろうか。
真面目に隠れていた僕は疎外感というか、裏切られたような憤りというか、何とも言えない虚しさのような感覚を覚えた。  
僕もかくれんぼをやめて、一人で何かし出そうか。そんな事を思い始めた。  
僕はふと、丘の方を見る。
高くまで続く緩い斜面が、くるぶし位までの背丈の草で覆われている。
そういえば、この丘の頂上はどうなっているのだろう。  
何度もこの場所で遊んだことがあるのに、不思議と今まで気にしたことが無かった。
そうだ、どうせ一人置いてけぼりを食らってしまったし、折角だから登ってみよう。
そして上に何があったか後で皆に報告しよう。
僕はそう思い、丘を登ることにした。  

丘を登り切った所には、団地があった。
無機質な家々が連なる中、一ヶ所だけが開けて道になっており、其処から団地に入れるようになっている。
僕は丘の下に置いてきた友達のこともあり、これ以上進むことを躊躇したが、
見ず知らずの場所に対する冒険心に駆られ、結局その団地の中へと入っていった。  
団地は何の変哲もない静かな場所で、小さな庭付きの平屋や、二階建ての小さなアパートなどが所狭しと並んでいた。
僕は今まで住んでいた地域に全く知らない場所があったことに新鮮さを感じ、最初のうちは団地の散策を楽しんでいた。  
しかし子供時分とは面白いもので、道を進んで行くに連れ、友達とはぐれたことへの不安が徐々に強くなっていき、
五分ほど歩いたところで僕は帰ることにした。  

「あれ…?」  
帰り道を歩き始めてすぐ、分岐路に出た。
確か来たときは一本道だった筈だ。  
「あれ、迷ったかな?」  
またやってしまったか、とその時は思った。
僕は生来ドジな性格で、小さなスーパーでもすぐに迷子になる。
おまけに周囲に対する観察力も鈍く、目の前に探し物があっても気づかないほどだ。
いつものことだと早々に合点をつけて、僕は勘で右側の道を行くことにした。
「おかしいな・・・」  
帰り道を歩き始めてから既に何分か経っているような気がしたが、一向に広場は見えてこない。
そればかりか徐々に住宅地の道自体が広くなり始め、やがては車が二台すれ違える程の幅にまでなってしまった。  
「だめだ、やっぱおかしい・・・」  
明らかに道を間違えているか、もしくは自分の考えも及ばない何かが起こっているか。
大きな十字路に差し掛かったところで、僕の疑念は焦りへと変わった。
十字路の中心、見たことのない模様のマンホールの上で、僕は逸る鼓動を抑えながら何とか思考した。  
来た道を戻るべきか。勘でこのまま進むか。あるいは誰かに助けを求めるか。
もはや後戻りはできないという焦燥感に煽られた僕は二者目を選び、十字路を左に曲がった。  

その道は狭く、ひたすらにまっすぐ続く道だった。
両端に塀がそびえる細道を、額から汗を垂らしながら早足で歩いた。
そんな僕の選択が功を成してか、遂に僕は道の袋小路へと差し掛かった。  
そこは杉の木と僕の身長ほどの背丈がある雑草に覆われた茂みだった。
この時点で疲労感は既にピークに達しており、僕は半分ヤケになって茂みへと入っていった。
茂みは思ったよりも早く抜ける事ができた。
だが、その時の僕にとってはそんなことは問題ではなかった。  
「あ・・・れ?」  
茂みの先は狭い草むらになっていた。
脇には急な下り坂が広がり、その向こうには、見慣れた色の屋根があった。
自宅。そう、迷い込んだ団地を抜けた先には、見慣れた自分の家があった。
帰ってきた、無事に帰ることができた。
家に向かおうと足元を見るまでは、そう思えた。
家に着くまでの下り坂と言うか、その間は断崖になっていた。
今思えば、なんとかすればその崖を越えることが出来たかもしれない。  
だが、当時から自覚があるほど運動音痴だった僕の目には、その崖は目の前の安息の地への道を絶つ、無慈悲な結界のように映った。  

僕は振り出しに戻ったような絶望感に苛まれながらも、
その中で僅かに見出した一縷の望みにすがり、なんとか元来た道を歩き出した。
そうだよ、そうだとも、家が見えるんだ、帰れないわけがない。
そう自分を励ましながら重い足を引き摺る。  
茂みの向こうには、やはり細長い塀の道が、疲弊した僕をあざ笑うように連なっていた。
こんなことが連続した後だ。もしかしたら道がまた変わっているかもしれない、等という淡い期待も、先程と同じ十字路によって打ち砕かれる。  
どうしようもない。もはや自分の力ではこの団地から抜け出せないのか・・・。
僕は遂に考えうる限りの最良の選択である“わからなくなったら人に聞く”という妙手を取ることにした。  

十字路を突っ切って最初の塀をくぐり、知らない家の庭へと恐る恐る入る。
二階建ての家の玄関先に立ち、白いドアの横のチャイムを押す。  
「こんにちはー!すみませーん!」  
小学生が思いつく限りの挨拶を口に出す。だが、返事は無い。
おかしいなと思いつつも、もう一度チャイムを押してみるが、相変わらず辺りは静まり返ったままだった。  
「いないのかな・・・」  
僕は落胆しかけたが、そこであることに気が付いた。
今まで歩いてきた道で、誰にもすれ違っていないのだ。
いや、すれ違っていないばかりか、誰の声もしなかった。
僕が学校を出て、皆と遊んでたわけだ。
無い頭で逆算するに、普通なら下校時刻を過ぎた頃だし、子供達の遊ぶ声くらいはしてもいい筈なのに・・・  
子供はおろか、散歩をする老人や家で炊事をする主婦の気配の一つくらいはする頃。
ところが、それらが一つもない。
加えて夕食を作る匂いや、鳥の囀りさえ無い。
すれ違ってきた家々は何処も彼処も、しんと静まり返っていたような気がする。

僕は別世界に迷い込んだような気分になり、薄ら怖くなったが、他の家を探している余裕も無い。
陽はとうに傾き、空に赤みが差している。
焦りに背中を押され、駄目元で反応のなかった目の前のドアを押す。  
ドアは慰みにもならない程、簡単に開いた。
引き戸のあの洋風な飾りが施されたドアノブの感触が、未だに生々しく僕の記憶を呼び起こす。  
「ごめんくださーい!」  
家に鍵が掛かっておらず、挨拶もしたのだ。
自分の中での常識では、大人の人がドタバタと早足で玄関にやってきて当然であった。
しかし、半分予想はしていたが、家はしんと静まり返ったままであり、誰も来なかった。  
「お邪魔しまーす!ちょっと道を・・・」    
馬鹿みたく大声を出していた筈が、徐々に音が落ちていく。
心が折れかけ、何もかもが嫌になっていた僕は、遂に知らない人の家に勝手に上がるという、小学生でもわかるタブーを犯していた。  
怒られてもいい。今はただ、誰でもいいから人の手が、声が欲しい。
その時は心底、人肌が恋しかった。

僕は板張りの廊下から、庭の見えるリビングへと入った。  
黄昏の薄暗い光が差すその部屋は六畳ほどの広さで、白いソファやガラスのテーブルなどのある一般的な洋室であった。
だが、明らかに異質なものがあった。  
テレビ  誰もいない筈の、否、いないと思われるその家のテレビは、電源が入りっぱなしだった。
その上、テレビの前に敷かれたカーペットの上には、つい先程まで人がいたかのように、リモコンが転がっていた。  
テレビ自体の様子もおかしく、画面は明るく映像も映っているのに、音は一切聞こえない。
僕は何気なしに、そのテレビを覗き込んだ。  

思わず自分でも何処から発したのだろうという間の抜けた声が出た。
明るいその画面は、ある部屋を映していた。  
白いソファ、ガラスのテーブル・・・。そして画面の端に人が座っていた。
白いカーペットの上、ショートカットの大人の女性が足を組み、その上に小さな子供を乗せている。
普段着というか、無地のスエット、下はジーパンだろうか。
何処にでもいる佇まいの女性と子供。  
当時のせいか、テレビのせいか、画質が荒く定かではなかったが、確かにこの部屋である。
いないはずの女性と子供。映っていないとおかしいはずの僕。
そして何故テレビであるものが、この部屋を映しているのか・・・  
女性も子供も無表情で、顔色一つ変えずに、ただじっと生気の無い目でこちらを見つめていた。
見られている。画面の向こう側の人間に、僕は見られている。  
女性と目と目が合ったような気がした。
膝の子供は何処かで見たような気がするが、思い出せない。
脂汗が背中を伝い、腰のベルトに行き着く。  
痛い。最初、何処が痛いのかすらわからないほどだったが、あの数瞬にも満たない時間の中、
僕は恐ろしいほどの静寂から来る耳鳴りに、頭痛を覚えていた。  
女性が無表情のまま、瞬きをした。  
それからはまったく不甲斐ないもので、訳も分からない叫び声が喉から飛び出していた。  
「嫌だ…!もう嫌だ…!誰か助けてぇ!」  
何処をどう這いずり、我武者羅に走る僕の声が、沈黙の団地に響き渡る。
僕は駆けた。思うままに、ただ道が辿るが如く。この場所から一刻も早く逃れるために。  

どれほど走っただろうか。
あのテレビの女性の家からは大分離れたと思う頃、遂に体に限界が来た。
急く気持ちとは裏腹に、体力は底をつき、息も切れ、狂おしい程の頭痛もあってか、僕はよろよろと目の前の電柱に手を着いた。
汗でびしょびしょのシャツは勿論、ベルトすらベトベトだ。
僕はそのままに恐怖感と絶望感に打ちひしがれながらその場にヘタレ込んだ。
僕は朦朧とした意識のなか考えた。
これから夜が来る。そしたら僕はどうなるのだろう。
この恐ろしい団地から出られないまま、夜の道を這いずるのだろうか。
思い切ってあの断崖にも思える場所を下り、家に帰るべきか。
いや、道の途中にあの女がいたらどうしよう。そもそもあの家は何だったのか。
一体どうしたら・・・  
僕がハアハアと荒く息をつきながら、思考を巡らせていたその時だった。

『コーンカーンカーン♪5時になりました。小学生の皆さん、おうちに帰りましょう』  
あの頭痛がするほど静まり返った団地の中、突如頭上から大音量で音楽が流れ始めた。
聞き覚えのある『あかとんぼ』のメロディ。
僕の住んでいる地域で、必ず夕方の五時になると流れる音楽だ。
思わず顔を見上げると、もたれかかっていた電柱の先端のサイレンから、その曲が流れていた。  
徐々に頭痛が引いていく。
周りを見ると、見慣れた通学路の住宅地の公園のジャングルジムに、明るい夕日が反射してこちらを照らしているところだった。
僕は思わず走って来た道を振り返る。
其処には見知らぬ団地も、知らぬ十字路も、見たこともないマンホールもなく、ただ見知った夕焼けと茂み、丘が佇んでいた。  

「あ!いた!〇〇君、みーつけた!」  
遠くから声がした。
見ると、道の奥の住宅地から友達が並んで歩いてきていた。  
「お前どこ行ってたんだよ!探しに探したんだぞ!」  
「え?ご、ごめん・・・」  
「いいじゃない、見つかったんだし!」  
「でも、もう五時じゃねえかよぉ!」  
僕に非難や擁護の声を浴びせる友達の声が、ひどく懐かしく感じられた。
その後僕らは帰り道をいつものようにお喋りをしながら、それぞれの家へと帰っていった。  

現在、僕の家の上、丁度あのとき僕の家を見た坂道の辺りには、大きな家が一軒建っている。
ネギの広場の丘の上も、小さな住宅地になっていて、そこの一本道を少し歩けば例の公園に出られる。  
あの時の団地は、いったい何だったのか。
崖の下に見えた自宅は。あのテレビに映った女は。見知ったような子供は。
思えばあの子供は当時の僕の服装をしていたような・・・  

あの時、夕方を知らせるサイレンが鳴らなければ、僕はどうなっていたのだろう。
大人となり、人生の佳境に入った時分、ふと静寂が訪れた時に僕は、自ら彼方へと追いやったこの幼少の出来事を思い出す。

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