ジサツヘノイザナイ

ホラー映画や怪談に時々出てくる「喜びながら自殺する人」ってホントにいると思いますか?
ボクはいると思ってるんです。 実はボクがそうでしたから。

あれはもう20年以上前だったと思いますが、けっこうブラックな企業で働いていて、
毎日朝から深夜まで働かされ、帰ったら帰ったで睡眠時間もあまりとらずに ネットだゲームだと遊んで、
とにかく不規則な生活が続いていた頃の事です。
人間やっぱりそんな生活をしているとだんだん壊れてくるんです。
寝ていると「ピンポーン」とドアチャイムが鳴る。
「ガチャ」・・・ドアを開けても誰もいない。
シャワーを浴びている時に限って「ジリリリリーン」と電話が鳴る。
急いで部屋に戻ると電話なんか鳴ってない。
そんなことが度々起きていました。

そしてある晩・・・その日は自分にとって最も恐ろしい夜になりました。
寝ていると、天井から巨大な蜘蛛が顔の上に落ちてきたのです。
蜘蛛が大嫌いなボクは「ギャーー」と叫んで蜘蛛を払いのけ、飛び起きました。
見ると、枕の上でひっくり返った巨大蜘蛛が、足をキシキシとバタつかせてもがいています。
ボクは再び叫びながら立ち上がり、蛍光灯の灯りを点けました。
すると、蜘蛛などどこにもいません。
ボクは少しの間、部屋の中をあちこち探しながら、やがて落ち着いてきて、 これは現実ではないということに気が付きました。
ボクが見た蜘蛛は、タランチュラのように太くて毛深く、そしてなんと、
「エイリアン」に出てきたフェイスハガーのような大きさがあったのです。
いくらなんでもこの地球上にそんな巨大蜘蛛はいません。
それに第一、蛍光灯を点けるまで部屋は真っ暗だったのです。
蜘蛛が見えるわけがない。
ましてや眠っていたのになぜ天井から落ちてきた蜘蛛がわかったのか。
自分は夢を見たんだ、そして瞬間的に飛び起きたものだから、夢と現実の間みたいな時間ができ、
そこで巨大蜘蛛の幻覚を見たんだと、冷静に分析してまた眠りにつこうとしました。
「幻覚とはこんなにリアルに見えるものなんだな」と感心しながら布団に入りました。
が、高ぶってしまった神経ではなかなか寝付けず、そのままジリジリと朝を迎えてしまいました。

朝の6時くらいでしょうか、そろそろ起きて出社の支度を・・・と思いながらも、
この時間から急激に体の疲れと眠気が襲ってきて、起き上がることができません。
ここまでならよくある不眠症で片付いたと思うのですが、ここである異常が発生します。
横を向いて寝ていたのですが、顎を動かした拍子に「カツン」と上の歯と下の歯がぶつかったのがわかりました。
実はその前日に歯医者に行っており、新しい差し歯を入れたばかりでした。
部位は左上の小臼歯、いわゆる犬歯というやつです。
それがカツンとぶつかった。
そもそも新しい差し歯は、かぶせてから歯医者さんが高さを調整し、噛み合わせを見るものです。 ボクも実際そうしました。
でも、完全ではなかったのか、今、その歯が下の歯にぶつかって 自分のクチをちゃんと閉じることができないのです。
後から聞いた話ですが、人間の顎は上下に動くだけではなく、横にも前後にも動き、 水平方向に回転運動もする。
しかも座っている時と寝ている時では位置が微妙に変わってくる。
だから歯医者でカチカチと上下運動だけ見てもダメな場合があるというのです。
とにかくボクは、クチをちゃんと閉じれないことに今頃になって気づいてしまった! どんなに顎に力を込めても閉じれない。
このことでだんだん顎の関節部分が痛くなってきました。 イライラが募ります。
深夜の幻覚から、不眠症で体は泥のように眠いのに、 神経だけが高ぶって頭は高回転、オマケに口が閉じれないというトラブル。
すぐに歯医者に行って高さを調節してもらいたいと思うも、まだ朝の6時。
開院までにはまだ3~4時間はかかる。
寝ることも起きることも口を閉じることもできないボクは、そんな中で強烈な心理状態に陥りました。
今まで生きてきた人生の中で一度も体験したことのない強烈な不安感と孤独感が入り混じった感情です。

なかなか説明が難しいのですが、窓から入ってくる太陽の光を見ながら、窓の外が無音であることに気づき、
まるで世界から隔絶されたかのような静けさを感じたのです。
部屋の中がやけに真っ白で、 まるで出口のない四角い箱に閉じ込められたかのようです。
そしてボクはこの時、自分の体の中に「魂」のような存在がある感覚に襲われました。
本当の自分はピンポン玉くらいの「魂」そのものであり、
それが人間というガランドウな殻の中に閉じ込められて、 頭の先からつま先まで、真っ暗な殻の中を飛び回ってあちこちにぶつかり、
何とかしてこの殻をやぶって外に出て自由になりたい!と、そんな感覚に陥ったのです。
そしてボクは閃きました。
「そうだ、このマンションの屋上から飛び降りて、 顎から地面に叩きつけられれば、きっと顎も閉じることができるし、
体もどこかに穴が開いて ボクの魂は殻の外に出ることができるはずだ!」
ボクにはそれがすごくいい考えに思え、マンションから飛び降りて地面に叩きつけられる姿を想像をしてみました。
・・・なんと清々しい気持ちよさ! 自分は高いところが怖いはずだったのに、なぜか今は飛び降りにワクワクしているのです。
「そうか、今日はボクが死ぬ日だったんだ!そうかそうか!」
ボクは自分の考えに納得し、うれしくなって立ち上がり、外に出ようとしました。

ここで不運なことに、と言うか幸いなことに、このマンションは7階建てなのですが、
古いマンションのためかエレベーターがなく、7階まで登るには階段を使わねばなりません。
もしもエレベーターがあったなら、このまま一気に7階まで行ってあっという間に飛び降りていた所ですが、
前日からの不眠で体が泥のように重く、階段を一歩も上がることができませんでした。
ボクはトボトボと部屋に戻り、床にばったりと倒れ込みました。
そこには猫がおりました。
ウチで飼っている、というか、本当は野良猫なのですが、いつのまにかウチに上がりこんで 我が物顔で暮らしている猫です。
そいつがノンキに床で寝ていたのです。
ボクは猫をもふってやりました。
人の気など知らぬ猫は、もふられて目がとろ~んとしてきて もっともっとと甘えてきます。
そんなことをしているウチにボクの頭も少し冷静になってきました。
「こんな喜んで自殺したいなんて、自分は頭がおかしくなっているんじゃないだろうか?
これは思い切って精神科の病院にでも行った方が良いんじゃないだろうか?
うん、少なくとも自殺するよりそっちの方がまともだろう。
第一、死んだら死んだで 田舎に残してきた親兄弟に途方もなく迷惑がかかる、マズイよそれは」
さっそくネットで検索してみると、近所にある大きな病院に心療内科があることがわかり、 とにかく行ってみようと、着替えて外に出ました。

もう7時になっており、病院は開いてる時間です。
重たい体を引きずって、病院の受付の前にたったものの、自分の症状を何と言って説明してよいかわからず、
とりあえず当たり障りなく「不眠症なので見てもらいたい」とごまかしました。
大病院で、予約も取らずに行ったものだから、そこから待たされる待たされる。
会社にも休むと電話して、待合室でぐったりと横になっていました。
実際に診察室に通されたのが11時ごろです。
でもたぶん、それでも早い方だと思います。
たぶん、ぐったりと横になっている自分を見かねて、先にしてくれたのでしょう。

診察室では女医さんにまずお礼を言われました
「敷居の高い心療内科によく来ていただきました、ありがとうございます」と。
病院でお礼を言われたのはこれが初めてでした。
そこからはアンケートをはじめ、昨晩から起きた蜘蛛の事、今朝の歯のこと、自殺願望などすべてを話しました。
不思議なことに自分が体験したこの話を、誰かに聞いてもらっているというその事実だけで 気持ちがどんどん軽くなってきました。
そして女医さんは「おそらくパニック障害でしょう」と診断してくれました。
「パニック障害?」この時、ものすごく気持ちが晴れ晴れとしました。
自分が「パニック障害」だと判明したことで、何かが解放されたような気持ちになったのです。
その後は血液検査(たぶん薬物検査)もされ、パキシル、マイスリー、ソラナックス等の薬を処方され、
帰ってすぐそれらを飲み、寝ました。
そうそう、その前に近所の歯医者にも緊急で立ち寄り、高さが違う歯も削ってもらいました。

このようにしてボクの恐怖の一日は過ぎたのですが、そこからこの通院は延べ5年間にもなりました。
すぐに症状が治るわけではなく、日々薬で落ち着かせながら治療していくのです。
しばらくの間は、鉄塔などの高いものを見ると「ああ、あそこから飛び降りたらどんなに気持ちいいだろう」 と、
ワクワクする自分を抑える日々が続きました。
例の蜘蛛の幻覚もそれから二度見ました。
が、おもしろいことにだんだん小さくなって行くのです。
最初は顔よりデカイ巨大蜘蛛、二回目は普通のタランチュラほどの大きさ、 そして三度目はジョロウグモほどの大きさでした。
蜘蛛が小さくなるほど、病状は軽くなって行きました。
問題なのは、小さくなった蜘蛛の方がより現実的にリアルで怖いところですが・・・。

それから治療中に感じたことなのですが、ボクはこの頃から性格がとても温和になり、 どんなことにも怒らず、
面倒なことも前向きに積極的に対処できる人間になっていきました。
おそらくクスリの影響です。
思い返せば治療を始める前は毎日会社でも些細なことでブチ切れていた気がします。
それがまったくなくなった・・・。
人間の感情なんて、薬でどうにでもできるもんなんだなぁと変に感心してしまいました。
だから、ニュースで煽り運転とかでだれかれ構わずケンカをふっかけるような犯罪者の話を聞くたびに、
ボクと同じ薬を処方すれば、きっと優しい真人間になれるから、刑務所で薬を出せばいいのに、 と思ったりします。

もし、これを読んでいる方で、自分はブチ切れしやすい(原因は相手にあるとしても)と思っている方や、
とにかく自殺したい、あるいは誰かを殺したいと願う人、幻覚・幻聴らしきものを見る人がいたら、
まずは試しに診療内科や精神科へ行ってみることをお勧めします。
きっとまだ希望が残っているはずですから。

朗読: 【怪談朗読】みちくさ-michikusa-

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