忘れられない事がある。
話しても誰も信じてくれないだろうし、私もよくわからない。
それは、私が中学生の時にさかのぼる。
うちは、父親と母親が離婚し、姉は母親、私は父親に引き取られた。
当時小学生だった私は、母親が恋しくて仕方なかった。
でもそんな素振りは一切見せなかった。それは、父親に申し訳ないから。
小学校の校長だった父親は、とても厳格で、私はよく殴られた。
今では騒がれるだろうが、私は虐待なんて今でも思わない。
話は少し脱線したが、私が中学生になったある日の事。
夏休みの部活から帰った私に父親が「これは何だ!」とすごい剣幕で怒っている。
私は、父親が手にしている物を目にし、スっと血の気が引いた。
父親が手にしていたのは、私の宝箱。その中には、母親と姉の写真が入っていた。
その他、母親と姉に宛てた出さない手紙。
父親は怒りのあまり、何度も私を殴った後、写真と手紙を破いて捨てた。
私はそのまま家を飛び出し、フラフラと泣きながら歩いた。
足はとなり町に住む母親の家に向いていた。歩いて1時間以上はかかる道。
でも、お金も持たずに出たので、歩くしかない。
そのまま私はテクテクと歩いた。
色々な事を考えた。母親は私を見たら何と言うだろう?何を話そう?
たくさん話したい事はあったし、出来る事なら一緒に暮らしたい。
考えているうちに母親の住む町まで着いた。
少し町外れの奥に入るが、確かこの辺に家を建てて住んでいると聞いた。
小さな店に入り、母親の家を訪ねた。
「貴女、娘さん?」と感のいいおばちゃんが興味深めに聞く。
「違います」と答えお礼を言い店を後にした。
おばちゃんはいつまでも見ていた。
その視線を背に、聞いた道をたどって行く。
足が戸惑いと緊張でもつれそうになった。
母親の家らしき前に立つ。表札を確認して、思いきってチャイムを押した。
「はぁい」
懐かしい母親の声が聞こえた。心臓がバクバクと音をたてた。
ガチャ。ドアが開いた。
「お母さん」涙が溢れた。
「なつこ(仮名)」とびっくりする母の顔。
ドアは小さくしか開かれず、少しだけ開いたドアの隙間から「お母さん、私を養って下さい」と言った。
「お母さんと暮らしたい」必死で言ったつもりだったが、
母は「お母さん貴女まで養えないから。帰りなさい」と言うが早いかドアを閉めた。みじめだった。
そのまま、回れ右で元来た道を歩くと、さっきのおばちゃんがまた、「もう、帰るの?」と聞いてくる。
泣き顔がわからない様に顔を伏せながら「はい」とだけ答えて通りすぎた。
家に帰るしかない。
トボトボと歩きながら、涙も乾く頃、町の看板を見ながら歩いた。
あまり早く帰りたくないので、ゆっくり歩いた。
駅通りのこの道は真っ直ぐで迷う事はない。
何だか馬鹿馬鹿しくなった私は徐々に胸を張って歩き出した。
町の色々な看板を見つめながら。
なぜか来た時より、遠く感じた私は少し息があがってきた。
「こんなに遠かったかな?」
中学生の私は少し不安になった。真っ直ぐな一本道、間違えるはずはなかった。
時計を見るともう、一時間以上歩いている。
それなのに、住んでいる町にすら着かない。
あまり見馴れない風景が続く。
看板にはやけに、A町と記されている。
A町を盛り上げよう A家具店
A町?A町って私が知ってるA町は隣の県だけど?
じわっと汗が出る。
私、どこに来たんだろう?歩いても歩いても私の住んでる町の景色はやってこない。
うちに帰れない?と思った瞬間「お父さん」父の笑顔と共に父の作ってくれる卵焼きや味噌汁が頭をよぎった。
早く帰りたい。出てきた時は昼過ぎだったのに、空はオレンジ色になっていた。
私は黄昏時のその町を早足で歩いていた。
バス停が出て来て急いで名前を見る。見た事もない地名。
やはりここはA町なのだろうか。それにしても人は一人もいない。
車は走ってるが走る車を止めて聞くわけにもいかない。
そうして2時間ぐらい歩き続け、ようやく見馴れた道に着いた。
自分の住んでるS町。良かった!足元からヘナヘナと力が抜けた。
まだもう一息。帰らなきゃ。
そこから歩いて30分。帰る頃にはもう、日が暮れていた。
温かい家が見える。気まずい気持ちが甦る。
私は静かに玄関を開け、「ただいま」と言った。
父が迫力のある顔て「どこに行ってたんだ!」と怒鳴り声を上げた。
その後「まぁいい。ご飯食べなさい」と静かに言った。
その日のご飯はとても美味しかった。
父は母親が私を「足手まといになるからいらない」と言った事を知られない様、私から母親の存在を消してしまいたかったのだと思う。
これは後に祖母から聞いた。
私は大人になり、2児の母親になった。
隣の県まで行って働いているが、ある日子ども2人を連れて隣の県のA町まで足をのばした。
そこに大きな図書館が出来たと聞き、早速やってきた。
その時には、あの迷い込んだ時の事はすっかり忘れてしまっていたが、
一本、道を間違えた私は、そこにあの汗だくでさ迷い続けたA町の景色を見た。
何とも言えない懐かしさがこみ上げた。
もう閉店したA家具店。所々にA町の看板。見馴れない橋。
それは決して長い通りではなかったが、確かにこの通り。
なぜこんな所に飛ばされたのか、それともこの景色に見える様に化かされたのか。
種明かしの様に目の前に広がる景色が、また、じんわり父のホントの優しさを思い出させてくれた。
この一瞬の時間もオレンジ色の空。
「お母さん」
車から子ども達が私を呼んでる。
ふと、現実に戻り、車に戻る。
あれからまた、年月は経ち。またあの景色の場所へ行ってみようかと思う。