本当に怖かった

これは、関東の某県に住む男性・Mさんが体験したという話です。 多少、脚色はしています。

「今でこそ生活していけている」 と、語るMさんは過去に理不尽なリストラに遇い「自ら命を断つ」という事を本気で考えていた時期があったのだそうです。
その頃は友達や家族などに借金をしながら、なんとか食いつないでいたそうですが、 (惨めだ…) そんな気持ちがいつも自分の心を苛んでいて、 (いっそ、死んでしまおう…) いつしか、そんな事ばかり考えるようになっていたと話していました。
そして、Mさんはそれを行動に移してしまう。
選んだ場所は青木ヶ原樹海。 言わずと知れた、名所。
できれば「失踪し安否不明」という形にしたかったそうです。
なので、 「一番見つかりにくそうな樹海に決めた」 と、Mさんは話していました。

そして、その年の冬にMさんは青木ヶ原…富士の樹海へと向かった。
自分の車は途中のパーキングに残し、そこからは電車とバスを乗り継いだ。
目的地に到着したのは昼間、時刻は午前11時過ぎだった。
到着までどのくらいかかるのかを把握していなかったため、考えていた時間よりだいぶ早く着いてしまった。
実際に見た樹海はテレビなどで見た感じとは違い、Mさんはさほど怖さを感じなかったと言っていました。
昼間という事もあるが、なにより今から自分がやろうとしている事を考えれば感覚が麻痺していたのかも知れない…とも。
恐怖は「死ぬかもしれない」などの不安からやってくる。 自ら確実に、であれば怖くなどない。 Mさんは躊躇せずに樹海へと足を踏み入れた。

樹海の内部はけっこうな悪路だった。
オウトツが激しい地面に絡み付くように生える草や蔦、うねる木の根、そして倒木。
ふと、だいぶ奥まで来たと思い振り返ってみる。
そうしたらまだ、外部の光が見えた。
(ダメだ、もっと奥まで行かなければ…)
Mさんは、まるで取り憑かれたかのように奥を目指した。 奥へ、奥へ、もっと奥へ。
やがて、入って来た場所が見えなくなった。
腕時計で時刻を確認すると、午後の1時。 まだ、日が暮れる時間ではない。
しかし、 (暗いな…) 樹海の奥は暗かった。
密集した樹木の枝や葉が太陽の光を遮っているからだ。
ちらほらと入る僅かな木漏れ日のお陰で物を見て取る事はできる。
夜になったら、どうなってしまうのだろうか。
そして、もうひとつ。 冬だという事もあるがとても寒かった。
ただ、それはMさんにとっては都合が良い。
Mさんは座りの良い倒木に腰をかけ、持ってきたリュックを漁り始める。 中には大量の酒。 アルコール度数の高い物ばかりだった。
大量の酒を接種して昏倒し、そのまま眠るように凍死する…そういう算段だったそうです。
手始めにポケットウィスキーに口をつける。 アルコール度数は40度、一口でも相当にキツい。
Mさんは一呼吸おき、一気に飲み干そうとウィスキーのビンを傾ける。

その時だった。
(え…?)
少し離れた場所を女性が歩いていた。
白い二本線が入った赤いセーターとジーンズ、肩までの黒髪。
一瞬、驚いたMさんだったが、 (死にに来たのだろうか…) 場所が場所であるだけに…と、そう納得した。
ウィスキーを飲みつつ、目で女性を追う。
(美人そうだな…)
女性は樹海の悪路を奥へと進んで行く。 そして、酔いの回ったMさんの心に魔が差した。
…どうせあの女も死ぬつもりなのだろう、ならば襲ってしまっても… そう、考えてしまった。
Mさんはふらついた足取りで背後から女性に近づいた。
気づかれても構わない…と、速足で距離を縮める。
そして、後ろから女性に抱きついた。
しかし、 (え……?) Mさんの両腕は空を切った。
呆けた顔で自分の腕を見下ろすと、そこには赤いセーターだけがあった。
Mさんは慌ててセーターを手放す。 足下に目をやると、そこにはジーンズとスニーカーがあった。
しかし…みな、何年も経っているかのように苔むしていた。
そして、それらと一緒に散らばった白骨が目に入った。
理解が追いつかず、Mさんは声すら出せなかったそうです。
呆然と足下のそれを見ていた、その時だった。
周りから何か気配がする。 一つではない、複数。
複数の何かが、木々の間からこちらを見ている。

「気のせいではなかったと思う」 と、Mさんは話していました。
そして、その何かの気配がこちらに向かって集まってくる…そんな感覚がMさんに襲いかかる。 Mさんは弾かれたように逃げ出した。
一心不乱だったためか、 「どこをどう走ったかは覚えていない」 …と、言うMさん。
気がついた時には現地の住民に保護されていたそうです。
死のうという気はすっかり失せていた…と、話していました。
「あれは、本当に怖かった」
最後にMさんはそう、締め括るように言いました。
自ら命を断つ決意、死ぬ覚悟。 それらを払拭するほどの恐怖とは、いったいどんな物であったのだろうか。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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