耳栓

 これは以前、引越しをした友人の入居先での話です。

 友人が勤めている会社の部署が春から変わり、今までよりも通勤時間が長くなったことから、勤務先の近くに引越すことになった。 俺も友人から手伝ってくれるようお願いされたので、二人で週末に引越しをする事になった。
 そこまで物持ちではない友人だったので、作業は思ったよりも早く終った。
友人「俺、ちょっと近隣に挨拶してしてくるから適当にくつろいでてくれよ」
俺「はいよ」
 友人の新居は築20年程の二階建てのアパートで勤務先まで一駅で着くらしい。しばらくして友人が帰ってきた。
友人「わりぃ遅くなって、ちょっとコンビニで酒、買って来たわ、明日何もないんだろ?今日は泊まっていけよ」
 俺たちは雑多に置いてある荷物を端に寄せ、テーブルを広げた。 そして友人が買ってきた大量の缶チューハイを一本も残さず飲みほした。
俺「そういや、近隣の挨拶はどうだったんだ?」
友人「あー、結構年齢層が高い人ばっかりだったかな、
特にクセが強そうな人は居なかったから、まぁ普通に生活してれば問題なく暮らせるんじゃないかな?隣は留守だったけど」
俺「へぇ…女子大生とかだったらどうするよ?」
友人「たぶんなさそうだな、この感じは」
俺「そうか、ファ〜ーあっと…なんか眠くなってきたな…」
友人「おっ、じゃあそのへんに布団があるから適当に使ってくれよ」

 昼間引越しをして、酒飲んで酔っ払って、なんだかんだで身体が疲れていたのだろうか、俺は布団を敷き横になると直ぐに眠りこけてしまった。
 そしてしばらくして、俺の身体が左右に揺り動かされた。
友人「おい…おいっ!〇〇!なぁ!ちょっと起きてくれよ!」
俺「あーーーっ、もう何だよ…地震かと思ったじゃねぇかよ…」
 酔いが抜けてない状態で友人に起こされた俺は、とにかく頭が痛く、友人に少しキレそうになってしまった。
友人「俺もさっきまで寝てたんだけど、隣から物凄いおっさんの怒鳴り声みたいのが聞こえてきたんだよ…それで一気に目が覚めちゃって…」
俺「えぇ…全然気付かなかったけど…てか雨が降ってるのか?雨音しか聞こえないぞ?
たぶん酔っ払ってるから変な夢でも見たんじゃないか?俺ちょっと頭、痛いからもう寝るわ…お休み」

 次の日の朝、友人に昨晩の事を詳しく聞いてみた。
 結局あれから友人も直ぐに寝てしまったみたいで、途中で起こされるほどの騒音は無かったという。
俺「後で隣人に挨拶してみたらどうだ?まだ家にいるんだろ?」
友人「……うーん、もしかしたら恐そうな人かもしれないからちょっと様子見てから行くわ…」
 完全に萎縮してしまった友人を俺は軽く励まし、アパートを後にした。

 そして一週間経って、友人に近況を聞いてみると特に何事もなく暮らせているとのことだった。
 ただ、相変わらず隣人は家から出てこないらしい。
 そして2ヶ月ほど経ったある日のこと、夜中に友人から電話があった。
俺「あ、もしもし、どした?」
友人「やばいよ…また、こないだみたいに隣が怒鳴ってるんだよ…尋常じゃない…」
俺「マジかよ、今も?」
友人「今もしてる、子供の泣き声も凄くて…」
俺「子供がいたのか?なんか電話だとあんまり聞こえないが…
てかそれ虐待なんじゃないのか? もしあんまり騒がしい様だったら、一言、言いに行った方がいいんじゃないか?」
友人「いや、こんな勢いよく怒鳴ってる中で注意なんかしにいけないよ、ましてや入居してまだ間もないし…なんか気まずいだろ?」
 友人は少し気が小さいところがあり、問題を避けて通ろうとするところがあった。とはいえ、正直、怒鳴り散らしている家に新参者がいきなり注意しに行く勇気は俺にも無かった。
友人「なぁ、今から家に来れないか?」
俺「今からかよ!俺が行ったってしょうがないだろ?大家さんとかに相談できないのか?」
友人「大家さんはこのアパートに住んでないし、夜中に電話するのもなんか迷惑かと思って…あとちょっと確かめたい事があって…だから、な?頼むよ」
 俺は友人の必死の頼みに断りきれず、なくなく車を走らせた。 外は大雨が降っていた。
友人「ごめんな、こんな遅くに来てもらって…」
俺「本当だよ!こんな嵐の中で人呼び出して!」
友人「ごめん、そうなんだよな…この隣の声が聞こえる時って決まって雨の日なんだよ…」
俺「……雨の日って今月始まってから、もう4、5日降ってるじゃないか」
 聞けば友人は、俺に言わなかっただけで雨の降る夜に隣人の怒鳴り声にずっと悩まされていたらしい。
俺「それにしても全然声なんか聞こえないじゃないか、どうなってんだよ?」
 友人はうつむきながらゆっくりと口を開いた。
友人「……実はさ、先月、隣人に初めて会ったんだよ」
俺「え?だってお前、ピンポン押しても出てこないとかなんとか言ってなかったか?」
友人「先月、一度挨拶しに行ってるんだ、お前の期待してた女子大生じゃなかったよ……おばあちゃんだった……耳の遠いね、一人で住んでるんだってさ」
 俺はその時、友人が何を言ってるのかさっぱり理解が出来なかった。 そして、続け様に友人が話し出した。
友人「お前さ、声がしてないって言ってるけどさ………俺には今もずっと怒鳴り声が聞こえてるんだよ…」
俺「は?何、言って…」
 俺は困惑した。頭を抱えながら小刻みに震えている友人を目の前にして、とてもそれが冗談で言っているとは思えなくなった。
 そして次の瞬間
 ドンッ
俺「うわっ!!」
 壁を思いっきり叩きつける音がした。
俺「なんだよ…いきなり…」
友人「……〇〇さ、玄関のドアを少し開けて隣を覗いてみてくれないか?」
 この部屋に入ってから友人の顔をちゃんと見ていなかったが、その顔はついこないだ引越しをしていた友人とはまるで別人だった。
 頬はこけ、目の下は垂れ下がり、異常なまでにくっきりしたクマが出来ていた。 10年老けたと言われてもおかしくはなかった。
俺「覗くって? お前さっきから何、言ってるんだ? 何でおばあさんが一人暮らししてて、男や子供の泣き声がするんだよ! そもそも俺には何も聞こえないぞ!?」
友人「すまん、後で説明するから……頼む、ちょっとだけでいいから外を覗いてくれ……」
 俺は何が何だかわからないまま、渋々言われた通り、ゆっくりとドアを開け隣の様子を伺った。
 すると隣人の部屋の前に、全身ずぶ濡れの女が立っていた。 その女の横顔はどこか物悲しげに見えた。
俺「お、おい、誰か部屋の前に立ってるぞ?」
 俺は友人の方に振り返ったその時だった。
「うわぁあああーーん!!!」
「ねぇっ!! どうして?どうして言うこと聞いてくれないのっ!!? ねぇっ!………………もうっ!! それじゃわからないんだよぉおおおーーっ!!」
 急に子供の泣き声と父親らしき男の罵声が同時に聞こえてきた。 あまりの大声に俺は反射的に体を仰け反らしてしまった。
俺「うおっ!? え? 何だよこれ!? やばいだろ!? 警察に電話した方がいいんじゃないか!? ただ事じゃなさそうだぞ!?」
「ごめんなさい! ごめなさぁあい!! うわぁあああーっ!!」
「いいからお母さんを呼んで来いよ! お前なんだろ!? どこに隠したんだよーっ!! どこに隠したかって聞いてんだよぉおお!!」
俺「何をそんなに騒いでるんだ……? お母さん?」
 するとさっきまで震えていた友人が、途端にどこか慣れた様な顔つきで喋り出した。
友人「〇〇もようやく聞こえるようになったか……やばいだろ? ここ毎晩ずっとだからな……ちなみにさ……そこの隣に立ってた女の人 ………お前がこの部屋に来た時からずっと立ってたんだぜ?」
俺「そんな訳ないだろ!? 俺が来た時には居なかったよ!」
友人「いや、いたんだよ……お前が気付かなかっただけで」
俺「気付かなかっただけって……ありえないって! 隣に立ってたら嫌でも気付くだろ!」
 俺たちがこうして会話をしてる間にも子供の泣き声は辺りを響かせていた。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だぁあー!! きゃああああああ!!!!」
俺「お前、何でそんなに落ち着いてるんだよ? さっきまであんなに震えてたのに!」
友人「あぁ、雨がだいぶ弱くなってきたからな……いつも雨が止む頃には自然と声が聞こえなくなるんだ……」
 あまりにも落ち着いている友人に俺はだんだんと腹が立ってきた。 そして、少し語気を強くして友人に言い放った。
俺「お前さ、そんなに落ち着いていられるなら何で俺を呼んだんだよ!
わかった風に言いやがって!」
友人「ごめん……ただ〇〇を呼んだ理由は別にあって、このタイミングしかないと思ってさ……」
 確かに友人は俺をここに呼ぶ前から、この怒鳴り声に頭を悩まされていた。 雨の日の夜ともなると、誰か来てもらうには呼びづらい状況だと思うし、警察を呼ぶにしたって、ご近所トラブルに毎回来てもらう訳にもいかないだろう、そう考えると俺は次第に友人のことが不憫に思えてきた。
 そして、しばらくして隣からの罵声がピタリと止んでいた。
 俺はもう一度ゆっくり玄関のドアを開けて様子を伺った。 すると、そこには先ほど立っていた女が居なくなっていた。
俺「〇〇、もう大丈夫そうだぞ……誰も居なくなってる」
 友人も外に出てきて、俺たちは雨上がりの夜の空気を吸った。 外は先ほどの騒音が嘘かの様に静かな世界が広がっていた。
 すると、隣の部屋のもう一つ奥の部屋から、ガチャッ とドアが開いた。 中から50代半ばぐらいの男性が出てきた。
近所の男性「こんばんは」
友人「あ、こ、こんばんは……」
近所の男性「新しい入居者さんですね? こないだ家内が〇〇さんから上等なお菓子を貰ったとのことで、どうもありがとうございました」
友人「い、いえ、ほんのご挨拶程度のものですから」

 その男性は以前、友人が挨拶に行った部屋の旦那さんで奥さんと二人で暮らしてるらしい。
 それにしても〇〇もそうだがここの住人は妙に落ち着いてるな、とその時は思った。
 だが、続け様にその旦那さんは
近所の男性「今日は特に凄かったですね……」
と俺たちに言ってきた。
友人「え? 何が……?」
近所の男性「何がって、隣、聞こえてたんでしょう? いやね、僕たちがここに来て10年ほど経つんですけどね、今、居る入居者さんはだいたいがここ最近入られた人ばかりなんですよ。以前いたご近所さんはみんな引っ越されてしまって、それでね、久々なんですよ……聞こえる人に会えるの」
 友人は何か確信したかの様にそのご近所さんに質問した。
友人「この部屋で何があったんですか?」
 ご近所さんは少し寂しそうな面持ちで語り始めた。

近所の男性「……この部屋は、僕たちがここに越してくる以前に、可愛い娘さんのいるご家族が住んでたんですよ。 ほんとどこにでもいるごく普通の家族でね、それがある時から旦那さんの方が仕事を辞めてしまって、酒に入り浸るようになっちゃったんですよ……。しかも夜中になると奥さんに暴力を振るっていたらしくてね……。しばらくして、奥さんが家に帰らなくなっちゃって……それからというもの、娘さんと旦那さんの二人暮らしになってしまって……。ちょうどリーマンショックがあった頃かなぁ、思えばあの旦那さんも大変な時期だったのかもしれないな……」
 リーマンショックの頃、俺と友人はまだ社会人ではなかったので、その頃に奮闘してた人の辛さが分からなかった。
 それでも、ごく普通の家族が壊れていく様相を聞いていると少し胸が苦しくなった。
近所の男性「旦那さん働いてなかったから家賃をずっと滞納してたみたいで、たびたび大家さんが来ては相談してたみたいなんですよ。大家さんにしてみても家賃未払いの人を住まわせるにはいかないところなんですけど、ちっちゃい娘さんが居ましたからね……多少は大目に見てたとこがあったと思うんですよ。ただ、ある出来事があってからその生活も出来なくなってしまって……」
 その近所の男性は、友人が新居者だからか久々に声が聞こえる人間に会えたせいなのか、色々とその家族の細かい事情まで話してくれた。 たぶん出会った頃はだいぶ良好な関係を築いていたのだろう。
 その家族の事をもっと知って欲しいという気持ちが、男性の話し方から容易に汲み取れた。
友人「ある出来事ってなんですか?」
近所の男性「ちょうど、今ぐらいの時期だったかな……。その日も凄い大雨が降っててね、なんでも娘さんが外から帰ってきた時に、上に着てたびちょびちょのレインコートを床に 放っておいたらしいんだよね、それを見た旦那さんがカッとなって娘さんをはっ倒しちゃったんだ……。あまりに大きな音がするもんだから、僕も心配になって様子を見に行ったんだよ。そしたら娘さんが壁を頭に持たせたまんまぐったりしちゃってて……」
友人「亡くなっちゃったんですか!?」
近所の男性「いや、すぐに救急車を呼んで診てもらって、幸い命に関わることはなかったよ」
 俺と友人は思わず胸を撫で下ろした。
近所の男性「その出来事を聞いた大家さんが児童相談所に連絡して、娘さんが怪我させられたのをきっかけに存命重視ということで施設に預けられることになってね、それから間もなくして旦那さんもこのアパートから居なくなってしまったんだ」
友人「そうなんですか、それにしてもあの声はなんなんですか?
おばあさんが一人暮らししてるんでしょう? どこから聞こえてくるんですか?」
近所の男性「正直言って僕にもわからない、 最初は驚いたよ、まさかあの親子が戻って来たのかと思ったら知らないおばあさんが住んでるんだから」
友人「ここのおばあさんはどう思ってるんでしょうかね……」
近所の男性「君も、もう知ってるかもしれないがここのおばあさんは耳が悪いからね、なんとか僕の質問を聞いてくれた時があったけど、何のことだかさっぱりって感じだったかな……おばあさんだけじゃない、ここの入居者の人たちにそれとなく聞いてみても、どうも皆、気付いていないみたいなんだ」
友人「やっぱり……。〇〇も最初は気付いていなかったもんな……俺だけ頭がおかしくなっちまったのかと思ってさ……」
 この時、友人が俺をここに呼んだ理由が改めてわかった気がした。
俺「ともかく、あの現象は普通じゃないですよ。やっぱり幽霊とか祟りとかそういう類のものなんですかね?」
近所の男性「幽霊って言っても、娘さんは今、学校に通っているって聞いてるしなぁ……。旦那さんは今、どこで何をしてるか分からないが……」
 野暮な質問したなと俺は思った。少なくとも娘さんは生きている。幽霊のはずがない。 しかし、この不可解な出来事をどう解釈していいか俺は言葉が見つからなかった。
友人「こういうのって生霊って言うんじゃないんですか?」
近所の男性「生霊かぁ……そうだね、あの頃の親子の日々がこの部屋に染み付いちゃってるのかねぇ……それにしても何で君たちには聞こえるんだろうなぁ?」
友人「もしかしたら、自分、人よりも霊感が鋭いのかもしれないですね……」
 友人は昔からどことなく不思議な雰囲気があった。
 俺には霊感とか第六感とか、そういったオカルトチックな感覚は全くないと思っていたし、幽霊という存在を信じていなかった。
 だが、今回の一件で俺はそういったものの存在を信じざるを得なくなった。
 と、ここでひとつの疑問が浮かんだ。
俺「あの、隣で声が聞こえてくる時に部屋の前で立ってた女の人……あの人は蒸発してしまった奥さんなんですか?」
 俺のこの質問にその男性は
近所の男性「女の人……? 誰かそこで立ってたのかい?」
 意外な返答だった。 俺と友人は困惑した。
友人「あ、あの声が聞こえてくる時に、その……いつもスラッとした細身の女性が部屋の前に立っているのですが、ご存知ないでしょうか?」
近所の男性「僕は見たことないよ? あの奥さんが今、どういう風になっているのか分からないけど、そんなに細身な人だったっけかなぁ……」

 もう、何がなんだかわからなかった。 俺と友人は一瞬、顔を見合わせ、そして恐怖した。
 なぜこの男性には見えないのか? なぜ女がいきなり部屋の前に現れたのか?
 その女は蒸発した奥さんではないのか? そもそも生きてるのか死んでるのかもすら分からない。
 次から次へと疑問が湧き上がり頭がパンクしそうになった。
 もしかしたら、この部屋は俺たちが想像しているより遥かにいわくつきの物件なのではないか? 考えれば考えるほど身体が強張っていった。
 すると近所の男性が友人に言った。
近所の男性「あっそうだ、君に良いものをあげるよ」
 男性は一度自宅に戻り、何かを友人に手渡した。 友人がよく見ると、それは耳栓だった。
近所の男性「この耳栓、100均で買ったやつなんだけど、けっこう雑音を消してくれるんだよね。ほんの気休めかもしれないけど君にあげるよ」
友人「あ、ありがとうございます」

 その日、多くの謎を残したまま俺は友人宅を後にした。
 あれから半年以上経つが、友人は今もあのアパートに住んでいる。 たまに、雨の強い日はあの親子の声が聞こえる時があるらしい。
 その度に友人は近所の男性から貰った耳栓を付けて寝てるとのことだ。
 俺は友人が気が小さいとばかり思っていたが、実はかなり肝っ玉が座ったやつなんだなぁと、最近になって見直す様になった。

 拙い文章ですみません。ご拝読どうもありがとうございました。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ


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