落ちるアレ

その部屋に決めた理由は、南西向きのベランダから見える夕陽だった。
沈みゆく太陽が彩る空のグラデーションの美しさに心打たれ、その場で 「此処に決めます」と、案内してくれた大家さんに言っていた。

引越しの日。 荷物の片付けにも疲れて、私は缶コーヒーを手にベランダに立った。
空は既にオレンジ色に染まりはじめており、私はベランダの柵に両肘を着いて、ボンヤリと景色を眺めていた。
アパートの直ぐ脇には1級河川が横切っており、豊富な水を湛え、ゆったりと流れている。
堤防に作られた遊歩道では、犬の散歩をする人や家路を急ぐ子ども達の姿が見え、この平和が永遠に続きますようにと思わず祈りそうになった。
川を隔てた対岸には、いくつもの民家がひしめいており、その中に10階建てのマンションが建っている。
夕陽は、そのマンションの上を掠めるように通り過ぎて、僅かに見える海の方へと沈もうとしていた。

その時である。
10階建てのマンションの屋上から、黒い塊がスーッと落ちるのが見えた。
「えっ……」
私は思わず身を乗り出した。
一瞬ではあるが、その黒い塊が人影に見えてしまい、驚いたのだ。
しかし私の立つベランダから、その10階建てのマンションまでは距離があり、更に辺りはだいぶ暗くなっていた。
落ちたそれが人だという確信までは持てなかった。

翌日私は、ネットや地域新聞で、転落死や自殺の記事を探した。
だが、それらしい記事は見つからなかった。
やはり昨日のアレは、何かの見間違いだったのだろう。

その日も私は、夕陽を眺める為にベランダに立った。
もう昨日の事は忘れかけていた。 アレは見間違いだったのだ。
そしてまた太陽が、10階建のマンションを掠めて沈もうとしていたその時、また屋上から黒い何かがスーッと落ちるのが見えた。
「ああ……」
思わず声を上げてしまった。
いったいアレは何なのだろうか。
何だか分からないが、何だか怖い。

「アレ、見えましたか?」
不意に話し掛けられて、私は驚いた。
ベランダの仕切り板越しに、隣人が突然声を掛けてきたのだ。
前日に引越しの挨拶をした、学生風の若い男性だ。
「毎日、この時間になると、アレが落ちるんですよ」
私の返答を待たずに男性は話しはじめた。
「僕、事故物件サイトで調べたんですよ。あのマンションの事。
近くの病院に入院していた患者が、ベッドを抜け出して、あそこから飛び降りたと書いてありました」

その日以来、私はベランダから夕陽を見るのを止めた。

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