点滴台

これは、私の妹から聞いた話です。  

妹は看護師をしておりまして、今から約6年ほど前に看護学校を卒業し、看護師として働き始めました。  
今でこそ、妹の子どもはまだ小さいこともあり、夜勤の無い病院で勤務しておりますが、昔は夜勤のある大きな病院で働いていたそうです。  

とある地方のその病院は終末医療や小児科も備わっており、老若男女さまざまな入院患者が入院していました。  
地方の大きな病院というのは、昔から医療を提供しているためでしょうか、設備がひと昔前のものであることが多いようです。  
あまりに老朽化が進んでしまっている病棟は修繕されていたり、病床確保の為、増築されていたりはしていますが、小さな備品まではまだ新しくなっていないものがたくさんありました。  
例えば、カチカチと点滅したままの非常口案内の緑の照明。ストレッチャーや車椅子の車輪のキュルキュルという滑りの悪い音や、カルテワゴンの錆び付き具合など、まだ使えそうなものはそのまま使っている状態でした。  
初めての夜勤で、病棟の静けさの中、何か出るんじゃないかとビクビクしながら事務処理をしていた時、見回りから帰ってきた先輩がカルテワゴンを動かした「キュルッ」という音にビックリして思いっきり膝をぶつけて少し泣いてしまった姿を笑われたのは、今でも思い出してちょっと恥ずかしくなると話しました。  
初めての医療現場で覚えることもたくさんあり、夜勤ともなると少ない人数でナースコールや緊急処置の対応に追われてしまします。
そのため怖がる余裕もなくなり、また心霊体験も大して経験しない…というより、慣れてしまったようで、誰も入院してない病室のナースコールが鳴るくらいでは、驚かなくなったそうです。  

そんなある日の夜勤での出来事です。
とある入院患者と思われるおじいちゃんが、点滴台を杖代わりにして、ちょこちょこと徘徊していました。
水色の病院着を着ており、体はガリガリに痩せていて、腰は曲がっており、頭髪は真っ白でボサッとした感じです。
左手を腰に当て右手は点滴台に添えられていました。  
もちろん、このおじいちゃんだけではなく、入院というのは退屈ですから、早すぎる消灯時間に慣れていない患者さんは、深夜の変な時間に起きてしまい、病棟内を散歩される方もよく見かけます。  
そのおじいちゃんは、だいたい深夜の12時を過ぎたころ…忙しくてあまり時間は正確には覚えていないそうですが、おそらく1時も回っていたんじゃないかと言います。  
仕事にも慣れてくるとだいたいのルーティーンが出来てくるのか、一通り見回りや備品整理などを終え、細かな事務作業をしているころに、そのおじいちゃんは現れます。  
きっと、そのおじいちゃんにも何かしらのルーティーンがあるのでしょう。
だいたい決まった時間になると、点滴台を支えにして、ちょこちょこ…本当に、一歩の歩幅が5センチもあるかどうかのペースで、ゆっくりゆっくりと歩いています。  
消灯時間はとっくに過ぎているので、声かけを行います。

「おじいちゃん、もう遅いけん早う(はよう)病室戻らんならんよー?」  

おじいちゃんは頷いているのかよく分からないほどの、ゆったりとした動きで頭を傾げています。
本来でしたら、病室まで送らなければいけないのですが、おじいちゃんのペースで付いていけば、この事務作業は終わりません。
おじいちゃんを見送りつつ、仕事に戻ったそうです。  

ある昼の勤務の、先輩と話をしていたときのことです。

「深夜によく徘徊してるおじいちゃんって、どこの科に入院してるか知ってます?」
「えー?私見たこと無いけんなぁ」

何人かの先輩や同期の子に聞いてみましたが、誰も知らないそうです。
たまたま私が夜勤の日に徘徊しているのか、おじいちゃんがナースステーションを通る時に見回り等で人が出払っていたのか、もしかしたら別に毎日徘徊しているわけではないのかもしれません。  
あまり気にすること無く、仕事に戻ろうとしたとき、看護師長にちょっと来てと呼び出されました。

「さっきの話って、点滴台を押して歩く白髪のおじいさんのこと?」
「あ、師長も見たことあるんですね?」

妹は、他にもあのおじいちゃんを見た人がいたことに少しホッとしました。
幽霊だったりして…なんて考えていたからです。
「あのおじいちゃんは長いことああして徘徊しとるけん、気にせんでえぇよ」
「そうなんですね。何の病気で入院してるんですか?」

すると、師長の顔は曇りました。

「もうおらんよ」
「え?」
「あのおじいさんはずいぶん前に亡くなっとるけん、もうおらん。だから気にせんで」
「え?でも…夜に徘徊してたじゃないですか?」

足元に穴が空いたような、浮遊感のような衝撃をこらえつつ、師長に尋ねました。

「点滴台…押しとったやろ?」
「はい…」
「音…鳴らんかったやろ?」

ゾクリと産毛が逆立ちました。
そうです。この病院の備品は前述したように、古いものが多く、点滴台もその一つです。
患者さんから、ちょっと動かすだけでキュルキュルうるさいと苦情を言われたことがあります。

あのおじいちゃんの歩くペースの遅さでも、点滴台はちょっとでも動かせば音が鳴ってしまいます。  
それが全くしなかった。
師長は話を終え、仕事に取りかかりました。

以来、夜勤の日にはおじいちゃんが通る時間はナースステーションにいないように業務を調整し、辞める日まで会うことはありませんでした。

朗読: 朗読やちか


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