あるマーク

 これは俺が四、五歳だった頃に体験した不思議な話。

 俺はよく自宅の周りで一人で遊んでいた。
 砂遊びだったり、お隣の飼い犬を撫でたり、意味もなく電信柱の周りをぐるぐると回ったり。
 で、当時の俺には、お気に入りの電信柱があった。
 ブロック塀のすぐ脇に建ててあって、俺がギリギリ通れる位の隙間になっていた。
 その隙間をいかに素早くすり抜けられるか、ってのにこだわって、ぐるぐると回っていた。

 その日の時刻は昼過ぎ位だったかな。
 家にいるのも退屈になってきたので、 「さて、そろそろ回るか」 と思い、母親に一声かけて家を出て、例の電信柱へと向かった。
 電信柱の前まで来て、俺はいつもと様子が違う事に気が付いた。
 電信柱の、俺の目線より少し上の辺りにスプレーか何かで、「あるマーク」が落書きされていた。 大きさはだいたい子供の顔くらいかな。
 まあ別にそこまで気にする程じゃないはずなんだけど、何故か俺にはその「あるマーク」が無性に奇妙に感じた。
 ただの落書きに。心臓にドスン!と衝撃が走る程に。
「回らなきゃ」
 ふと、そう思った。

 俺はいつも通り、電信柱の周りを回り始めた。
 何周か回って次の隙間を通り抜け、顔を上げると、 辺り一面が地平線だった。
 アメリカの荒野みたいな大地に、地平線まで続くアスファルトの道路。
 そしてさっきまで回っていた電信柱が一本。
「すげー」
 俺は完全に思考が停止していた。
 パニックになることもなく、怯えることもなく、あまりの広大さに圧倒されていた。 風も音も無かった。
 青い空と茶色い大地、ガタガタのアスファルト。遥か向こうに山みたいなものも、ぼんやりと見えていた。
 しばらくすると俺は、空を何かが飛んでいるのに気が付いた。
 飛行機だった。大きさは紅の豚が乗ってるやつ位だと思う。
 それがスモークを炊きながら、俺の正面上空を横切っていく。音も無く。
 風が無いせいか、スモークはその場にずっと留まっていた。
 まるで飛行機が空に落書きをしているみたいだった。
 その飛行機が二回、グルンと宙返りをした。
 電信柱に書いてあった「あるマーク」が空に出来上がった。
 それに気が付いた瞬間、俺はようやく怖くなった。
「どうやったら帰れるんだろう」
 振り返っても家は無く、地平線。有るのは電信柱だけ。
 俺は泣きながら、無我夢中で電信柱の周りをぐるぐると回った。
 急に車の走る音が俺の耳に飛び込んできた。
 ハッとして目を開けると、いつもの風景に戻っていた。

 すぐに家に帰り、母親に今起きたことを泣きながら伝えた。もちろん伝わらなかった。
 電信柱まで連れていって落書きを見せようとしたけど、もう落書きは無くなっていた。

 ……という話。
 あれから三十年位経った今でも、電信柱に書いてあった「あるマーク」は覚えてるんだけど、何故か書けないんだよね。
 丸と丸で出来るはずなんだけど、書いてみると絶妙に違うんだよな。

朗読: 思わず..涙。
朗読: 朗読やちか

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