仕事の都合で、関西から関東のとある町に引っ越すことになった。
なかなかにブラックな業種なもので、辞令を受けたのが異動先で勤務を開始する3週間前。
その間に激務と並行しながら引っ越し準備を行わなくてはいけなくて、ちょっとした地獄だった。
普段は会社の総務部が新居の手配をしてくれるんだけど、その時期ちょうど会社がバタついていて、俺自身で部屋探しをすることになったんだ。
引越し先は新幹線と電車を乗り継いで4時間以上の距離、直接出向いて部屋を決める時間もないため、ネットの賃貸サイトから探していくことになる。
短期間での部屋探しは本当に大変だった。
俺はインコを飼ってるからさ、家賃のわりに綺麗な物件なんかは探せば結構あるんだが、「ペット可」の条件が加わると途端に見つからなくなるんだ。
あっても想定より家賃が高くてめちゃくちゃ狭い部屋か、駅から徒歩50分のボロボロの平屋とかそういうのばかり。
それでも範囲を広げて探して、とある町でようやく一軒のアパートを見つけることが出来た。
駅から徒歩10分、2LDKのペット可物件でお値段は5万円とちょっと。正直これまで見たどの物件よりも破格の条件だった。
代わりと言っちゃなんだけど、その物件は職場から電車で40分くらいの町にあるんだ。
まぁ贅沢言ってる時間も余裕もないので、俺は速攻でそのアパートを契約した。
引っ越し当日、初めて部屋に立ち入ったのだが、まぁ安いだけのことはあるなと納得した。
風呂場に換気扇がないのだ。
あるのは曇りガラスの外倒し窓だけで、その窓を開ければすぐ目の前は路地に面しているから、換気をしながらの入浴なんて出来そうにもない。
以前から換気が十分に出来ていなかった証拠に、浴室内のゴム部分にはうっすらカビ跡のような黒い染みが滲んでいるし、なんだか全体的に酸っぱいような変な臭いがした。
リビングはと言うと、内装は小奇麗なのだが全体的にジメジメと湿っぽくて肌寒い。
南側に面した大きな窓からはこれでもかというくらい光が差し込んでいるのに、それでも部屋全体がどこか薄暗く妙に肌がベタつくような湿気を感じる。
(安アパートだし、壁とか防湿設備をケチってるんだろうな。それに家具が入ってないから薄暗く感じるのだろう) と、その時はあまり気にしていなかった。
引越しからしばらくは慌ただしかった。
慣れない環境で働きながらチマチマ荷解きをしなくちゃいけないし、環境が変わったストレスのせいかインコが鳴かなくなるしで随分心配をした。
ようやく部屋が片付いてインコが落ち着いたと思ったら、今度は残業続きで終電ギリギリの電車で帰宅する日が続いたんだ。
俺の部屋を含めて4部屋しかないアパートの窓は、帰る頃にはどこも明かりが消えているから、夜型生活の俺は住人を起こさないように静かに過ごさなくてはいけない。
夜中のシャワーやトイレなんか特にそう。アパートって壁が薄いから、流水音が全体に響くしね。
だから残業がある日なんかは、寝る前の風呂は避けて朝にシャワーを済ませるようにしてたんだ。
夜間に他の住人の生活音がほとんど聞こえないっていうのも、俺がここまで気を遣う理由のひとつだった。
残業帰りの深夜ならいざ知らず、休日家に居ても夜の19時頃にはアパート全体の生活音がピタッと消えるんだ。
どの部屋にも人が住んでいるのは間違いないんだよ。
時々洗濯物が干されているし、俺が在宅している休日の日中なんかは掃除機の音とかトイレを流す音がアパート全体に響くからさ。
なのに、日が沈むかどうかのうちに、どの部屋もピタッと静かになって、トイレを流す音すら聞こえなくなるから、俺もなんだか生活音を出すのが憚られるような気持ちになる。
そこまで気にすることでもないけど、俺の部屋以外が示し合わせたように静まり返るのは居心地が悪いというか、少しだけ不気味ではあった。
引っ越してから2ヵ月くらい経った頃、俺は少し遅くなった職場の歓迎会を終えて深夜に帰宅した。
久々に飲んだ酒が回ったのでさっさと横になりたかったが、焼肉の臭いが染みついた髪がどうにも煙たくて気持ち悪い。
時間は午前1時を過ぎた頃で、こんな時間の水音はさすがに躊躇われたのだが、週末くらいは良いだろうという事でシャワーを浴びることにした。
風呂場の窓が面している路地は、昼間でもすれ違う人が殆どいないくらいなので、こんな時間だと完全に人通りがなくなる。
酔って気が大きくなっているのもあり、せっかくだからということで、俺は換気も兼ねて窓を開けたままシャワーを浴びることにしたんだ。
窓から入る夜の空気が背中にひんやりと心地よい。アルコールでぼんやりした頭もしゃっきりしてくるようだった。
下を向いてシャンプーを泡立てながら、床の隅の水垢に気付いて「やっぱり定期的に換気しないとなぁ」なんて思考も巡る程度には酔いが醒めた、そんな時だった。
カチャン
不意に、聞き覚えのある硬い音が聞こえた。外倒し窓を開閉する時に鳴る音だった。
驚いて窓を見上げるが、窓は換気の為に開いたままで特に変わった様子はない。
(うわ、やだな。光に誘われてデカい蛾かゴキブリでもぶつかったんじゃないか)
そんなことを考えてゾッとしたので、さっさと髪を洗い流して出ることにした。
再び下を向いて、シャワーの蛇口をひねる。
キュウッという音に少し遅れて、ザアアァァと水音が響く。 その音に混ざるように、再び窓が「カチャン」と鳴った。
また虫でもぶつかったのだろうか? いや、そもそもこの窓は上部のロックを外すとガラスが外側に向かって倒れて開く仕組みだ。
虫がぶつかった程度の衝撃で重い窓が動くだろうか。ふとそんな疑問が浮かび、再び窓を見上げて「うわっ!」って声が出た。
外からぬるっと伸びた一本の手が、窓枠を掴んでいたのだ。
そうしてゆっくりと、窓を押したり引いたりを繰り返している。
その度に「カチャン、カチャン」と窓が音を立てていた。
関節が浮いた細い指の先に塗られた、赤いマニキュアが妙にくっきり見えて、それが見間違いなんかじゃなく、人の、女の手だってことを主張していた。
(あ、これは間違いなく生きた人間じゃない)
一瞬で俺は理解した。
だってありえないんだよ。俺はめちゃくちゃ視力が悪いからさ、普段はキツい眼鏡をかけているんだ。
眼鏡を外したら、1メートル先の人の顔すらぼやけるレベルなんだよ。
じゃあなんで、今裸眼なのに俺はあいつの手のガサガサに荒れた肌まで見えてるんだよ。
窓枠を掴む手は相変わらず、一定のリズムを刻むようにカッチャン、カッチャンと音を立て続けている。
それに混ざって「……せん……………ません………」と、ボソボソとした声が聞こえ始めた。
中年くらいの女がコップを口に当てて話してるような、モゴモゴくぐもってるのに変に反響しているような声だった。
「こぅのぉ…ぅおぉ…よぉなぁ~……もうし………せん、ません」
声は遠くなったり近くなったりしながら、同じ言葉を繰り返し続けている。
もうこの頃には俺もすっかりビビってしまって、シャワーヘッドをお守りみたいに握りしめて、その女の手を見つめ続けるしかなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。急に、近くを走る国道の方からパトカーのサイレンが鳴り響いた。
絶え間なく続いていた声が、それに反応するようにピタリと止まった。
そして次の瞬間「ンンンンンンンンンンンンゥゥゥゥゥゥ!!!!」とサイレンを真似るような声を上げると、手が窓枠から外れてするりと窓の外に消えた。
バクバクする心臓をどうにか抑えながらしばらく放心していたけど、パトカーの音が遠ざかりつつあることに気付いて慌てて窓を閉めて浴室から飛び出した。
後ろ手で叩きつけるように浴室のドアを閉めてリビングに駆け込もうとした瞬間、うなじに魚が腐ったような臭いと共にぬるい空気がフーッと当たって
「このような事を引き起こしてしまい大変申し訳ありませんでした」 と、女の声がはっきりと耳元で聞こえた。
もう限界だった。俺は無言で駆けだして、全裸でずぶ濡れのまま寝室へと飛び込んだ。
布団をかぶってインコが寝ている鳥かごの前を陣取って、アイツが部屋まで入って来ませんようにと祈りながら、心の中でデタラメな念仏を唱え続けた。
浴室の方からは、時折ザリザリと曇りガラスを引っかくような音と「ンンンンンーンンゥ」みたいなうめき声が何度か聞こえていたけど、明け方には静かになっていた。
翌朝、恐る恐る浴室を覗くと、黒っぽいヘドロのようなものが床一面に塗りたくったようにこびり付いていた。
更には魚が腐ったような臭いが浴室いっぱいに充満していて、昨日の出来事が夢じゃなかったことに泣きたくなった。
それらを片付けようとして、浴室の掃除用品を切らしていることに気付いたので、クタクタの身体を引きずって近所のドラッグストアに向かおうと部屋のドアを開けた瞬間、
まるで見はからったかのように
「バァン!!!ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!」
乱暴な音を立てて上階の部屋のドアが開いたと思うと、目の前の外階段をすごい勢いでおっさんが駆け下りてきた。
よれよれの首周りが伸びきったスウェットを着て、白髪混じりの髪は脂ぎってテカテカした、正直だらしない印象のおっさんだった。
そのおじさんは呆気に取られてる俺の前に立つと、呼吸を荒げながら満面の笑みで
「夜はさアァァ特に駄目だよォ!!!皆いないフリしてるのにサァ!!!!!」 と唾を飛ばしながら、滅茶苦茶な抑揚で叫んだ。
昨日から意味の分からない出来事が立て続けに起きて、俺もおかしくなっていたんだろうな。
「何だってんだよ!!何言ってんのか意味わかんねーよ!!」 と、半べそで怒鳴り返した。
ご近所さんに対する礼儀とかを、その時は考えてる余裕なんてなかったんだよ。
すると、おっさんは「あああああああああああ!!!!!」ってバリバリ頭をかきむしったかと思うと、急に真顔で俺に向き直って
「このような事を引き起こしてしまい大変申し訳ありませんでした」 と、今度ははっきりとした口調で言った。
俺は無言でおっさんを突き飛ばして部屋に駆け込むとロックとチェーンをかけ、その日はもう一歩も外に出なかった。
そんな気分じゃないけど無理やり酒を流し込んで寝て、夕方目を覚ましてまた酒を飲んで朝までひたすら眠り続けた。
頭がパンクしそうで、もう何も考えたくなかったんだ。
そして次の日、風呂場に溜まったヘドロをモップでかき集めてゴミに捨て、残りは無理やり水で流して塩をまいた。
あの嫌な生臭い臭いだけはしつこく残ったので、芳香剤を置いてドアにガムテープで目張りした。
もう二度と、自宅の風呂場は使わないって決めたんだ。
そんで、俺の飼ってるインコなんだけどさ、元々お喋りが得意な奴だったのに、この部屋に越してからほとんど喋らなくなったんだ。
代わりにあの日以来「ゴォォォォォォォォォォオォォ」とか「グブグブグブ」とか、配水管の中を水が流れるような気持ち悪い音を喋るようになった。
動物病院に連れていっても異常はなくて「近くの音を真似ているのではないか」と言われたんだ。
そんな訳ないんだよな。だって俺、そんな音なんか一度も聞いたことないもん。
あの日風呂場の窓枠を掴んでいた女は一体何だったのか、あのおっさんが言っていた「夜は特に駄目」とか「皆いないフリをしている」がどういう意味なのかは分からない。
夜になると消える生活音はあの女に関係してるかどうかとか、インコが何の音を真似ているかとか、深く考えるだけで気が滅入りそうになる。
本当は今すぐ引っ越したいんだけどさ、このアパートは社宅扱いで借り上げているから次の異動命令が出るまで引っ越せないんだ。
だから、俺は今もこの部屋に住んでいる。
夜の生活音は、絶対に出さないようにしながら。