むっしょい

 6年生の夏休み、お盆の頃の話。

 もうあと僅かばかりの命を嘆く様に朝から蝉が鳴き叫び、扇風機が結びつけられたリボンをヒラヒラさせながら生ぬるい風を送り付けてくるので、
 学習ドリルに一文字も書き込まないうちに勉強意欲が完全に尽きて無くなり、かといって友達は里帰りや旅行で不在、弟は夏風邪で寝込んでいるため、
 2人以上で参加しないといけない学校のプール開放にも行けないしと蝉に同じく嘆いていると、集会所で勉強でもしてきなさいと母から提案され、まあ家でボケっとしているよりはいいかと、勉強道具に好きな本数冊を忍ばせて出掛けた。

 集会所の引戸を開け、沢山の靴やサンダルをぴょんと飛び越えて上がった畳張りの大広間には子供や老人が履物の数だけ居た。
 クーラーが軽くかかっていて、補助的に働いている扇風機が首を振って涼やかな風を振りまいている。
 走り回るのは禁止されていたからそれぞれ長机で談笑したり、宿題やってたり、寝そべってトランプしたりと様々な過ごし方をしていた。
 そんな様子を一通り見回し、さあ早速勉強を…とは一切ならず、人口密度が低い場所に移動し体育座りで壁を背もたれにして、
 何回も読み返してあちこちボロボロになったお気に入りの怪談本を開く。

 母が持たせてくれたカチコチに凍った麦茶をチビチビ飲みながら読み進めていると、ふと自分の前に立つ人の気配を感じた。
 本の向こうに灰色のスラックスが見え、スーッと目線を上げていくと半袖白シャツの優しげなおじいさんが立っていた。
「一人で読書かい?」
 声を発さず頷くと、おじいさんは私と目線を合わせるようにしゃがんで、私の読んでいる本のタイトルをちらりと見た。
「怖い話とか好きなのかい?」
 また声を発さず頷いた。
 読書を続けたかったのだが、おじいさんは私の横に来て私と同じように壁に背をもたれさせた。
「私がちょうど君ぐらいの歳だった時の話聞きたい?」
「怖い話?」
「そうやねえ怖い言うたら怖いかなあ」
 声を発して会話を交わした。
 正直やっぱり一人で読書を続けたかったのだが、おじいさんには独り本を読む姿が寂しそうに見えたのかもしれない、
 それで相手をしてあげようと思ったのかもしれないという考えが浮かび、あまり無下にするのも気の毒なので、本を閉じて話を聞くことにした。
 おじいさんは遠い記憶を手繰り寄せるように窓の外の夏の日差しに目を細めて暫し沈黙してから、静かにゆっくりと話し始めた―――

 ここからがおじいさんから聞いた話。
 話の中のセリフなどはどこかの方言でしたが正確に再現は出来ないので、その辺は雰囲気で書きます。

 ―――大正の時代、12歳の私は山間の村に住んでいた。
 鬱蒼とした山に囲まれているため日の出は遅く、逆に日の入りは早くて、夏でも17時を過ぎる頃には暗くなり始める様な所だった。
 30程の世帯があり、その殆どが農家で生計を立てていた。
 本当に不便なところで、学校に通うにも山を二つ越えなければいけなかったため、小さい子や身体の弱い子など、学校に行けない子もいた。
 そんな学校に行っていない子供の中に『むっちゃん』と呼ばれている私と同い年の男の子がいた。
 彼の事を村の人は皆むっちゃんと呼んでいたが、お年寄りは『むっしょいさん』と、さん付けで呼び、中には『むっしょいさま』と呼ぶ人もいた。
 むっちゃんは学校に行かないのにとても賢い子で、運動も良く出来たし顔立ちは女の子みたいに美しかった。
 どこにも欠点が無いような子だったけど、むっちゃんの背中の上部には手毬ぐらいのコブがあった。
 それは着物を着ていてもわかるほど盛り上がっていたが、本人があまり気にする様子もなく、
 私も物心ついた時からむっちゃんの背中はそうなっていたのでなにも意識しなかったし、周りの人も同様だった。
 幼くもないし身体が弱い訳でもないのに学校に行かない理由を考えると、やはり背中のコブのせいなのかなと思ってはいた。

 むっちゃんの家は裕福そうだった。
 むっちゃんの家に上がったことは無く、どういう生活をしているのかまでは見えなかったが、家は村の長の家より大きく新しかったし、いつも良い着物を着ていた。
 田畑はそんなに持っていなかったが、それはむっちゃんの家が農家ではなく自給の為の田畑だったので問題無かったし、
 他の家々から日々作物や猟の獲物を沢山貰っていたので、そもそも田畑など無くても良いぐらいだった。
 私の家も含め、むっちゃんの家より小さな古い家に住んでいる側がなぜ大きな家にものをあげるのかもよく分からなかったが、その行為は明らかに『施し』ではなく『貢ぐ』という感じだった。
 むっちゃんの両親は何の仕事もしていなかった。
 両親とも身体はどこも悪くないし、素行が悪い訳でもなかったが無職だった。
 裕福だから仕事をしなくてもいいという事もあったのかもしれない。
 そうだとしたら周りが羨ましく思ったり妬んだりしそうなものだが、その事で陰口を叩いたり噂話をする人は誰一人おらず、
 それどころか年寄りは、むっちゃんやその家族に出会った時や家の前を通る時に有り難そうに拝んだりしていた。
 私はそれらの情報から推理して、何か神様や宗教が関係しているのかなあとぼんやり考えもしたが、
 大人達がむっちゃんの家のことを本当になにも言わないので、それについて僕から両親などに聞くことも無かった。
 むっちゃんは、たまに他所の家や我が家でご飯を食べることがあり、その行儀作法がとても良いので、見習いなさいと母親に言われるのが嫌だったが、
 一緒に寝る事もあって、その時は夜更かしをしておしゃべりしても両親から咎められることもなくてとても楽しかった。

 同い年ということもあり、むっちゃんと私は仲良く日々を過ごしていた。
 初夏のある深夜の事。 尿意で目覚め、庭を挟んだ向こうの牛小屋の隣にあるボットン便所に行くため外に出た。
 その夜は眩しいほどに明るい月が出ていて、世の中が薄紫色に見えた。
 しゃがんで用を足しながら便器下を覗くと、溜まっている糞尿が囲い板の隙間から入り込む月光を浴び、表面に蠢く蛆虫やチリ紙もまた薄紫にキラキラと光っている。
 牛の様子を覗いてから寝床へと戻る途中、庭の中程で目の端にちらりと何かが映った気がした。
 そちらに目を向けると、遠くに見える田の畦道に月光を浴びて輝く人が立っていた。
 背中にはコブ、それは月を見上げているむっちゃんだった。
 むっちゃんがこっちを見て、私を確認したのか手を振っている。
 むっちゃんが夜出歩いているのは今日だけではなく、夜間便所に行くとき何度か目撃していた。
 そのことについては母に伝えた事があったが「むっちゃんはええんよ」とだけ言った。
 なんとなく多くは語れないと言う感情が読み取れたので、それもまた聞き返したりはしなかった。
 畦道のむっちゃんが手招きしていたので、私はむっちゃんの元へ向かった。
 その夜のむっちゃんはいつにも増して美しく、紫の世界の中でとても神秘的に見えた。
 むっちゃんは相変わらず月を見ていた。
「もうじき行くんよ」
 むっちゃんがぽつりと言った。
 どこに?と聞き返したがむっちゃんは月を見たまま動かなかったので
「月?月に行くん?」
 まさかとは思ったがそう聞いてみた。
 するとむっちゃんがプッと吹き出して、正面の山に視線を落とした。
 その山は『かんなびの山』と呼ばれ、村では神様が住んでいると言われていて勝手に入ってはいけない場所だった。
「かんなびさんに行くん?」
 むっちゃんは何も答えなかったが多分合っている様に思えたし、やっぱりむっちゃんは神様か何かなのかなと思った。
「じきにっていつ?」
「コブがよう動きよるから、もうすぐよ」
「コブ動きよるん!?」
 そういうとむっちゃんは私に背中を向けた。
 触ってみろという事だと理解して、恐る恐るコブに右手を近づける。
 コブに触れるのは初めてだったし触って良いものかと迷ったが、むっちゃんは相変わらず静かに背を向けたままなので意を決してコブの上に手を乗せた。
 すると、ぐにゃりと本当にコブが動いた。
 ビックリして咄嗟に手を引っ込めるとむっちゃんがまた吹いた。
「もっとしっかり触りいや」
 再び触るのは正直怖かったけど、好奇心もあったのでゆっくりと手をコブに乗せ直す。
 コブの中身が動いている。
 無数の蛇か芋虫が団子になってのたくる様な感触で、初夏の夜だったけど寒気がしてゾワっと鳥肌が立った。
 むっちゃん自身が筋肉や骨を動かしてるのかと思ったが、むっちゃんは微動だにせずに立っているだけだった。
 私の妹が母のお腹にいる時にそのお腹を触った感触にも少しだけ似ていると思った。
 手を離すとむっちゃんは振り返り
「触っても移ったりせんから大丈夫や」 と微笑んだ。
 そしてお互い「またね」と声を掛け合い別れたが、二日後の朝、むっちゃんは村から居なくなった。

 当日早朝、半鐘がなった。
 火事などを知らせたりする鐘なので私はびっくりして飛び起きたが、その日の半鐘は聞いたことのない打ち方で鳴らされた。
 一足早く起きていた両親が 「むっちゃんか…」 「むっちゃんやね…」 と、少し悲しげに言った。
 その日は学校を休むように言われ、家から出ては行けないとも言われた。
 両親は持っている一番きれいな着物を着て出て行った。
 昼前に一旦母が戻って来て、私と妹の昼ご飯を用意してまたすぐ出て行った。

 次に帰って来たのはすっかり日が暮れてからだった。
 私がむっちゃんの失踪を知ったのは翌日だった。

「むっちゃんは神さんとこに行きよったんよ」
 父が私にそう言った。
「死んでしもたんか?むっちゃん」
「いや、死んどらん、葬式せんやろが」
「家出したんか?」
「いや、それも違う、誰も探しにいかんやろが」
「かんなびさんにいったんか?」
 父が驚いた顔をして、暫く目線を迷わせてから、何かを決心したかのように私の目線を戻した。
「おまえは、むっちゃんと同い年やったの」
 そういうと母に目配せをした。
「もう、ええ頃でしょ」
 そういうと母は妹を連れて外に出て行った。
 あらためて2人共正座をして向き合い、一呼吸おいて父が話し始めた。

 その話は、なんとも不思議というか怖いというか、にわかには信じがたい話だった。
 この村には、この村だけの神様が居て、あの入っていけないかんなびの山に住んでおられる。
 神様は山の生けるもの、獣や虫、そして草花に至るまでを統べ、村に恵みを与えてくれていた。
 沢山の獣が地域に住まうので狩りは容易であり、虫達が混ぜ起こした肥沃な土地に立派な果実や作物が育った。
 しかし、時折神様はその御業を手伝う村人を求められた。
 生まれたばかりの男子の背中に神虫と書く『かんのむし』が卵を産み付けて選定の印とした。
 その選ばれた男児こそがむっちゃんだった。
 お年寄りが呼ぶ『むっしょい』とは、虫を背負うという意味『虫背負(ムシショイ)』から来ている。
 当然むっちゃんという呼び名も、むっしょいから来たものだ。
 神様に選ばれた子は、出生の届も出さないので戸籍も無い。
 むっちゃんが学校に通わないのは山を越えるのが大変だとかの理由ではなく、そういう事情があっての事だった。
 学校に行けないだけではなく、村から出る事自体を許されなかったが、代わりに村の中での行動は制限が無く、夜に徘徊しようが、人の家に上がり込もうが咎められることはなかった。
 むっしょいの子は村全体で大切に育てられ、その両親、家も村全体で養われる。
 むっちゃんの家もかつてはうちと同じ様な農家を生業とする家だったが、むっちゃんが生まれてから今の家に建て替えられた。
 むっしょいの子は皆利口で美しく育ち、その成長と共に背中のコブも育つ。
 コブの中の虫の姿は誰も見たことがなく、コブの中に何かが居るかのように動くことを目にすることが稀にあるぐらいだった。
 それを聞いて私はあの夜の感触を思い出し、また鳥肌が立った。

 父は続けた。
 むっしょいの子に精通があってから近い時期に神様に呼ばれる。
 いつ発ったかもわからず大概は朝が来てから気付く。
 発ったその日に村人がむっしょいの子の家に集まり、残された親に日暮れまで感謝を伝え祈りを捧げる。
 戸籍も無いので捜索を依頼することも出来ないし、そもそも神様の元へ発った事が判っているので探す必要もなかった。
 むっしょいの子の家はその先もずっと村に養われ、両親共が亡くなった際には、かんなびの山の麓に立派な墓が建てられる。
「むっちゃんは絶対行かんとならんかったん?」
 私は生まれた時からすべてを運命付けられていたむっちゃんが可哀そうに感じ、目に涙を溜めながらそう聞いた。
 父は苦いものを飲み込むような顔をしてから再び話始めた。

 江戸の頃より言い伝えられている話がある。
 あるむっしょいの子の親が息子を手放すのが辛くなり、精通が来んように睾丸を切り落とした。
 すると瞬く間に傷口が膿み、体中に毒が回り、もがき苦しみながら死んでしまった。
 それから三日のうちに両親共どす黒い血を吐き詰まらせて息子の後を追う事となった。
 しかし惨事はそれに終わらず、直後から村が飢饉に見舞われた。
 陽が陰り、害虫が大量に湧き、萎びた僅かな作物ですら容赦なく食い荒らし、そしてそれは村の中だけに治まらず周囲の地域を巻き込み、次のむっしょいが選ばれるまで多くの人が飢えて死んだ。
 この話を村の人々は、まことであると信じているので、選ばれた家はその使命を素直に受け入れた。
「しかし、正直言うと…」
 父は私に優しい眼差しを向けた。
「同時期に生まれたお前も選ばれとるんやないかと背中を隈なく調べよったし、三日三晩眠らず見張っとった」
 父は私の頭に手を置いた
「むっちゃんの親の気持ちも俺と変わらんと思う。睾丸切った親の気持ちもようわかる…」
 頭の手がとても温かく感じた。
「むっちゃんは幸せにしとるんかの?」
 溜まっていた涙がついに頬を伝い父にそう問うた。
「神さんの傍で幸せに暮らしとる!そう思っとらんとやり切れん!」
 そう言って私の目をしっかり見て頷いた。

 それからしばらくしたある日、むっちゃんの家の前を通った時、むっちゃんの父親から呼び止められた。
「お父ちゃんから聞いたんやろ?」
 そう言われて、多分父親から聞いたむっちゃんの話の事だと思ったので頷いた。
「ちょっと寄っていきいや」
 そういって手招きするので、私は初めてむっちゃんの家に上がることになった。
 自分の家とは比べるまでも無く広く整っていて、長い廊下を歩いた先に見た目からして神聖な感じのする戸があり、父親が静かに開け、私の手を引いて中に招いた。
 白木造りの広間の真ん中に、同じく白木造りの見上げるほど大きな祭壇の様なものがあり、その前には沢山の果物や野菜などが供えてあった。
 壇上の中央には崩し文字が書かれた板状のものが祀られている。
「あれがあの子の本当の名や『孫太郎(まごたろう)』や」
 むっちゃんの名前をこの時初めて知った。
「代々むっしょいの子に名付ける名や、むっしょいは役の名やでな」
 私に説明しながらその名を見る眼差しは、親の気持ちを話していた時の自分の父と同じだった。
「仲良うしてくれてありがとうね」
 背後からの声に振り返ると、いつの間にむっちゃんの母親がいて、涙を流しながら私の両肩に手を置いた。
 ポタポタと床に母親の涙が落ちる音が聞こえるほどの静寂の中でどれぐらいの時間が過ぎたのか、家を出た時には陽が暮れかけており、かんなびの山が赤く染まっていた。
 あそこから村を見守ってくれてるのかなと、むっちゃんを思い浮かべながら
「まっちゃん」 と、小さく呟いた。

 ―――おじいさんの話が終わった。
「怖かったかい?」
「ちょっと怖かった、けど面白かった」
 そう答えると、そうかそうかと頭を撫でて、よっこらしょと立ち上がり大広間から去って行った。
 鼓動がいつもより早く強く胸を打っていた。
 恐怖と言うか不安と言うか、でもそれだけじゃない複雑な感情の騒めきというか、6年生にはうまく言い表せないそういうものが、まだ心の中に居座り続けていて落ち着かない。
 本を読んでも最早内容が全く入ってこなくなったので、読書を切り上げ帰ることにした。

 帰り際、お礼を言おうとさっきのおじいさんを探したが見つからなかったので、玄関でおじいさんを思い浮かべながらペコリとお辞儀をして出た。
 外はまだ陽が高く、蝉もジャンジャン鳴いていたが、それが有難かった。
 心の騒めきが暑さで蒸発していく様に薄らいでいく。
 眩しい太陽に感謝しながら、逃げ水と陽炎の先の我が家に走って帰った。

朗読: りっきぃの夜話
朗読: ゲーデルの不完全ラジオ


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