旅館の女将

 3泊4日の出張で、某県のとある旅館に泊まった。 宿泊先は、後輩にまかせていた。
 予約を取る前に写真を見せてもらっていたが、夜ということもあったのか外観は実物とは全く異なるものだった。

 旅館に入ると、笑顔で女将さんと数名が出迎えてくれた。 フロントも綺麗で、部屋も、温泉も写真通りだった。
 食事を済ませ、風呂に入った。 風呂上がり、隣の部屋の後輩を呼んで、2人で呑んでいた。
 気づくと日付が変わっており、明日も仕事なので流石に寝ることにした。 だる絡みしてくる後輩を無理やり追い出し、 すぐにベッドに横になった。

 何時頃だろうか、何かの物音で目が覚めた。 その数秒後に、カチャ。と部屋の扉が閉まる音が聞こえた。
 誰か来たのかと思い、布団をはぐり、扉に目をやった。 そこには、月明かりに照らされた、着物を着た女将さんらしき人影が見てた。
 眠かったこともあり、少しイライラしながら、「誰ですか? こんな夜更けに」と声をかけるも、返答はない。
 ただぼーっと立っている。この状況では寝れないので、立ち上がって電気をつけようとしたその時。

 ジャラジャラジャラジャラ。

 数珠を擦る音が聞こえたと同時に、 ん゛〜〜〜〜、ん゛〜〜〜〜〜。 とお経のようなものを唱え始めた。
 この状況が怖すぎて、息を飲んだ後、すぐに布団にくるまり耳を塞ぎ、力一杯目を閉じた。
 寝たのか意識を失ったのか分からないが、記憶の直前までその音が耳を塞いでいたのにもかかわらず、はっきりと聞こえていたのを覚えている。

 朝、扉の前には誰もいなかった。 身支度を済ませ、部屋を出た。
 職場に車で向かう途中、どうせバカにされるだろうと思ったが、後輩に、昨日のことを話した。
 すると後輩は、「え? それ本当ですか?」と運転する俺に視線を向けてきた。
 うん。と返答すると、食い気味にこう言ってきた。
「昨日、〇〇さんの部屋から俺の部屋に向かう途中、着物着た人とすれ違ったんですよね……。こんばんは! って挨拶したんですけど、返してくれなくて。俯いてたので顔ははっきりとは見えなかったんですけど、背格好はかなり女将さんに似てましたよ……」

  その日は一日中、体がだるかった。 旅館に帰りたくなかったが、宿泊先を変えてもらうこともできず、恥ずかしい話、その日からは男2人、後輩の部屋で寝ることにした。
 夜中目が覚めてもお互い起こさない。音が聞こえたら、それを絶対に見ない。いろんな対策を練った。だからか、後の2日間は一回も目が覚めず、気持ちよく眠れた。
 最終日、チェックアウトの日に女将さんにあの夜ことを聞いてみた。 だが、その時間には旅館内の自室で寝ていたし、お客さんの部屋に無断で入るなんて言語道断。と言われてしまった。
 あの日2人とも酔っていたので、寝ぼけていたのかもしれないが、あの夜の話をした時の女将さんの喋りが、辿々しかったことが今でも気がかりだ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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