井戸端会議

 これは、当時新婚だった頃に、出張先で体験した話だ。

 新婚だって言うのに、俺は関東に出張で飛ばされた。
 嫁さんと一緒に引っ越した先は、まだ真新しい集合マンションで、近場へのアクセスも良く、学校や役所等も揃っており、今後産まれてくるであろう子供の事を考えても条件のいい場所だった。
 そんな引越し先だったが、俺は一つだけ慣れないものがあった。

「そうそう、田中さんとこの旦那さん、この前若い女の子と駅前歩いてたのよ」
「嘘でしょ?」
「いや、田中さんの旦那さんなら有り得るかも……」
 エレベーターを降りマンションエントランスから入口に向かうと、否応なしにも耳に届く女性達の声。 俗に言う井戸端会議と言うやつだ。
 はぁ、と軽く溜息をつきながら入口を出ると、三人の中年女性が目に留まる。 皆買い物袋を肩に下げ、相も変わらず他人の下世話な噂話に花を咲かせているようだ。 いや、花と言うより食虫植物か……。
「おはようございます」
 必死に笑顔を作り通り際に挨拶すると、三人とも示し合わせたかのように揃えた挨拶を返して来た。 そしてこれまた取り繕うような笑顔で三人は見送ってくる。 俺はこの三人が凄く苦手だった。
 毎朝出勤する度に聞かされる下世話な噂話。 特に新婚で引っ越してきた俺達なんか奴らの格好の餌食なんだろうなと考えると、虫唾が走る思いだった。
 次の日も、その次の日も似たような噂話。 うんざりする度に嫁に愚痴るも、 「近所付き合いもあるんだから」 とやんわりと諭された。
 毎日出勤前に顔を合わせる身にもなってくれと言いたかったが、それは嫁も同じかと思い直し我慢した。

 そんなある日の事だった。
 いつもの様にエントランスから入口に向い出勤しようとしたところ、 「四棟の東野さん、自殺らしいわよ……それも借金苦で」 「ああやっぱり、だと思ったわあ」 「この前見た時思い詰めた顔してたもの……」
 外から聞こえてくる三人の女性の声、間違いない、いつものママさん連中だ。 それにしても今回のは物騒な話だった。
 自殺? 誰かこのマンションで亡くなったのだろうか? 等と考えながら入口を出たところで、俺はギョッとして思わず固まってしまった。
 いつもの買い物袋を肩から下げたママさん連中、その顔は、とても嬉しそうにニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていたのだ。 そして俺に気が付くと、三人はとても人の生き死にの話をしていたとは思えないほどスッキリした笑顔を、俺に向けてきた。
「お、おはようございます……」
 何とか平静を装い挨拶をする。
「あら、おはようございます」
 合わせた挨拶、取り繕った様な笑顔。 それがいつもの何倍も気持ち悪く感じた。 足早に踵を返しその場を立ち去る。 今朝のせいで、その日は一日中憂鬱な日だった。

 仕事を終え家に帰り、今朝あった事を嫁に話すと、やはり四棟で自殺があった話はどうやら事実のようだった。
 明日もまた何か聞かされるのか……そう思うだけで嫌気がさしてくる。
 次の日、陰鬱な気持ちでエントランスを抜けた時だった。
「六棟の沼川さん、ランニング中に轢き逃げにあったんだって!」
「マンションの周辺走ってたんでしょ?」
「犯人まだ見つかってないらしいわよ」
 まただ。 俺はできる限り三人に気付かないように顔を背け入口を出た。
「おはようございます」
 だが意に反する様に、背後から三人が挨拶を投げかけてきた。 仕方なく諦めて振り返ると、相変わらずのあの気持ち悪い笑顔で、三人が俺を見つめてくる。 思わず引き攣るような笑みで俺は頭だけ下げ、急いでその場を後にした。
 仕事を終え家路に着くと、俺は今朝の事をまたもや確認する様に嫁に話した。
「ああ、聞いた聞いた。お隣さんも言ってたわ」
 どうやらまたもや本当の話のようだ。
「そ、そっか……」 そう俺が短く返事を返した時だった。
「今日の昼頃だったみたいよ……私ちょうどその頃買い物に出掛けてたけど、なんか他人事に思えないわよね」
「えっ?」
 嫁の言葉に、俺は思わず聞き返した。
「な、何? 今日のお昼に、ランニング中に轢き逃げにあった人の話でしょ?」
 昼? 嫁は何を言ってるんだ。 その話は今朝出勤前に、あのママさん連中から聞かされた話だ。 なぜ今日の昼?
「お、おいおい勘違いしてないか? 亡くなったのは沼川さんっていう六棟に住んでる人で、」
「失礼ね、事件の事聞いてさっきお隣さんと通夜だけ行ってきたわよ」
「う、嘘だろ?」
「本当よ、他に通夜に来てた人達の中にも、昼間に事故現場にい合わせた人もいたんだから」
「いや、だって……そんな……」
 嫁の話を聞き余りの事に俺は思わず口を噤んでしまった。 どうなっているんだ一体。
 じゃ、じゃあ今朝のママさん連中が嘘を? 何のために? いや、そもそも嘘ではなくなっている……。
 混乱する最中、昨日の事が頭を過る。
「き、昨日言ってたよな? よ、四棟東野さん、じ、自殺したって」
「ああ昨日の? うん、あれもお隣さんから教えてもらったの、お隣さん夕方にちょうど洗濯物取り込んでたみたいで、ドンって大きな音がした後しばらくしたら緊急車両がいっぱい来たって、貴方昨日は遅かったから良かったけど、もっと早く帰ってきてたら大変な物目撃してたかもよ?」
 脅すように嫁が言った。が、俺はうんともすんとも言えないまま凍りついてしまっていた。
「何? 何か今日は変よ? もうすぐご飯できるから先にお風呂でも入ったら?」
 訝しげに俺を見つめた後、嫁は台所へと戻って行った。
 部屋に戻り上着をその辺に放り投げると、俺はネクタイを緩めながらその場に寝転んでしまった。 考えが纏まらない。 いくら考えても納得出来る答えなんか出てこなかった。
 これを嫁に相談なんかすれば鬱病を疑われかねないなと、思わず覚めた笑みを浮かべてしまう。 新婚生活矢先に暗い影を落とすのは避けたい。 もどかしい思いで、俺はその日眠れない夜を過ごした。

 次の日、暗い面持ちで俺は家を出た。
 嫁の行ってらっしゃいという言葉にも気のない返事を返し、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。 けれどそれ以上に、俺の心は不安で押し潰されそうだった。
 いつものエントランス、重い足取りで入口に向かう。 もう聞きたくない、そう思うのと同時に、こいつらの噂が何を意味しているのか確かめたい。 そんな思いが頭の中を駆け巡っている時だった。
 俺の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「ねえねえ、次……誰にする?」
 瞬間、俺は入口から出る事無く、口を魚のようにパクパクさせながら、その場に力無くへなへなと座り込んでしまった。

 以上が、俺が三年前に出張先で体験した話だ。 娘も今年で三歳になるが、あの場所には二度と戻りたくないと、今でも思っている。
 実はあの後、心を病んでしまった俺は暫く会社を休んだ。 その時はまだ俺達はあのマンションに住んでいたのだ。
 やがて落ち着いた頃に、久々の出勤となった。 そしてその時、俺は決定的な話を、奴らから……あのママさん連中から聞いてしまった。
 それが原因で、俺は逃げる様にして妻を連れマンションを引っ越したのだ。
 あのマンションに住んでいた最後の朝の日、奴らは言っていた。 いつもの場所、いつもの恰好、いつもの笑顔で。
「○○さんと○○さんの奥さん、一家心中だって、娘の○○ちゃんもよ、可哀想に」
「まあ嫌ねえ」
「本当に可哀想」
 ○○さんとは、俺の名前だった。
 しかも娘の名前、当時はまだ生まれておらず、嫁は妊娠三ヶ月。 子供の名前は男の子だったら俺が、女の子だったら嫁が付ける予定だったため、互いに知らなかった。
 なのに……なのに奴らはその名前すら言い当てていたのだ。
 警察にも相談しようと思ったが、こんな話を信じてもらえる訳もなく、これは俺と嫁だけの秘密となった。 嫁は今でも一人で買い物に出かけられないという。
 近所のママさん連中が井戸端会議に花を咲かせているのを見るだけで、あの時の恐怖が、全身を蝕むのだと……

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