佇む

 十年ほど前、彼を含む家族旅行で、某県の温泉宿に一泊したときの話。

 旅行内容は父に一任してあったので、どんな宿なのかはよく知らないまま、14時頃に宿にチェックインした。
 外観はまあ普通の温泉宿……と言った感じ。 中は少し古い感じがして、土日だというのに宿泊客もあまりおらず、閑散としていた。
 出迎えてくれた仲居さんはちょっとうるさいくらいのお喋りな中年女性で、ぺちゃくちゃと関係ないことを喋りながらざっくりと館内の案内を始める。
 地下には家族風呂、1階はロビーと土産物屋、2階には温泉とレストラン、3〜5階が客室。最上階の5階には展望風呂もあるとのこと。
 展望風呂最高じゃん!と、まだこの時点ではわくわくしていた。
 エレベーターで客室のある5階へ。 なんとなくカビ臭いにおいのするエレベーターで、作動音もかなりうるさく、ガガガガガガっという感じで揺れたりもする。
 隅の方には蜘蛛の巣も張っていて、(おいおい大丈夫なのか……?)と、言い知れない不安が湧き上がっていた。
 エレベーターの中で仲居さんから、温泉の泉質の話やら近場の観光地の話などを聞かされる。
 流し聞きしていると、チーンという少し古臭いエレベーターの停止音と共にガコンッとエレベーターが止まった。
 さあどうぞ、と促されてエレベーターを降りる。 フロアは、エレベーターホールを中心に十字路になっており、左右が客室につながる廊下で、右側には「501〜506」左側には「507〜512」の表示、エレベーターの対面の通路の先には「展望風呂」の表示が見えた。
 中居さんはエレベーターを背に展望風呂の方を指し示すと、「このまま真っ直ぐ行きますと、展望風呂がございます。朝5時から夜は1時まで空いてますよ。夜空を眺めながらの入浴は格別ですよ〜」と、早口で捲し立てた。
「それじゃ、お客様のお部屋は505号室になりますので、こちらですね〜」と案内され、右の通路に入っていく。
 両親、弟、彼と、部屋の中に入って行き、最後に私が部屋に入ろうとした時。
「……あれ?」
 通路のどんつきに、浴衣を着た女性が立っていることに気がついた。 薄暗い空間に、1人佇む女性。 窓から外を眺めているようだった。
(他の宿泊客かな……?)
 首を傾げながらも、外は粉雪が舞っていたのもあり、雪景色でも見てるんだろう……そう思い、気にしないことにして部屋に入った。
 騒々しい仲居さんが退室した後、しばらくの間お茶を飲んだりして会話を楽しんだ。

 そのうちに男性陣は風呂に行くと言いだし、私と母は土産物コーナーに寄ってから風呂へ向かうことにした。
 男性陣から少し遅れて部屋から出ると、先ほどの暗がりに自然と目がいった。
 そこには先ほどと寸分違わぬ体勢のまま、まだ女性が佇んでいる。 もう1時間ほど経つというのに。
 少し気味が悪くなった私は、母の袖を引っ張り「ねぇ……」と声をかけた。
 すると母は「しっ……!」と小さい声で私をたしなめ腕をグイと引っ張るので、その場からそそくさと離れた。
 2人とも無言のままエレベーターに乗り込み、一階に着くと土産物コーナーまで早足で向かう。
 実を言うと、私は母のこの反応には慣れていた。 母には霊感のようなものがあり、度々このような反応を示すことがあった。
 私はその反応で、あの女性が生きている人間ではないと悟ったのだ。
 土産物コーナーに着く頃には、緊張からか少し息が上がっていた。
「あれ、なんなの?」
 母に尋ねる。
「さあ……。わかんないけど、人間ではなさそう。まあ、知らんぷりしとけば大丈夫でしょ」と慣れた様子で答えた。
 霊なんて全然慣れてない私からしたら、もっと詳しく対処法を教えてほしい……と不安に思ったのだけど。

 お土産を買って一度部屋に戻り荷物を置いてこようということになり、私たちは恐る恐る先ほどの暗がりを見やる。
 いない。 あの薄気味悪い女性の姿は、もうそこにはなかった。 母と顔を見合わせて、安心から笑みが溢れた。
 旅館のそこかしこに蜘蛛の巣が張っていたりカビ臭かったり埃がたまっていることから、かなり不安だったが、展望風呂は思ったよりも清潔でロケーションもよく、湯質は柔らかく湯加減もちょうど良い。
 私たちは満足して長湯につかった。 部屋に帰る頃にもあの女性の姿はなく、もしかしたら旅館の浴衣を着てたっぽいし、マネキンか何かだったのかも。 と、無理にでも納得して忘れることにした。
 夕飯を食べる為に大広間に行ったりと、何度か部屋を出入りしたが、以降は女性の姿を見ることもなく、家族が寝付く頃にはもうすっかり忘れていた。
 時間も深夜にさしかかり、一緒に起きて駄弁っていた彼も布団に入る頃、もう一度だけ展望風呂に入ってこようと思い立ち、私は1人展望風呂へと向かった。
 時刻は午前0時30分頃だったように思う。
 そろそろ掃除の人が来てしまう為、急いで脱衣所で服を脱ぎ、風呂場へ出た。
 展望風呂は内風呂がないので、脱衣所から出るとすぐに露天風呂になるのだ。
 外はうっすらと雪が積もっていて、屋根の下とはいえ外気温はおそらく氷点下だ。
 寒さに震えつつ、熱めのシャワーで体を流して簡単に体を洗った後、慌てて湯船につかった。
 一面雪景色で少しだけ空が明るい。 幻想的な風景と温かい温泉に癒され、しばらく時を忘れてぼ〜っとしていた。 ……と、清掃の時間が気になり、時計がかかっている脱衣所の方を見る。
「え……?」
 思わず、声が出た。
 脱衣所と風呂場を隔てる磨りガラスの引き戸越しに、人影が映る。 脱衣所側に誰かが佇んでいるようだ。
 時刻は0時45分を指している。
 もう清掃の人が来ちゃったのかな……? とも思ったが、おかしい。 動く気配がないのだ。 微動だにしない。
 それに、廊下から脱衣所に入るのに、割と重厚でガラガラとうるさく音をたてる引き戸がある。
 にも関わらず、それが開くような音すらしなかった。
 5人一度に入れるかどうかも怪しい、狭い脱衣所と風呂場だ。引き戸越しとはいえ、音がこちらに聞こえてこないはずがない。
 そして、さらにあることに気がつき、首筋にゾクリと冷たいものが走った。
 あの人だ……。
 そう、客室の廊下の、薄暗いどんつきで佇んでいたあの女……その人だ。
 青紫の浴衣に、髪を上で団子にしている。 そして何より、青白く血色の悪い肌色。 間違い、なかった。

 どうしよう、どうしよう……。
 逃げようにも、引き戸の向こう側に立っているあの女を通り越して行かなければいけない。 それに、あの女を背に着替えるなんてことも出来ない。
 助けを呼ぶ……? ダメだ……。こんなところから叫んだところで、客室は反対側だし、唯一外にある大浴場の露天風呂だって遠すぎる。 誰にも聞こえないだろう。
 私は女を凝視したまま硬直し、考えあぐねた。
「うそ……」
 女を見つめていたことで、気付いてしまった。 女は少しづつ動いているのだ。
 引き戸に向かって腕をゆっくりと伸ばしている。 まるで私をからかうように。 私の反応を愉しむように。
 ついに女の手が引き戸の取手にかかる。 やだやだやだ、怖い、やめて。
 私は、硬直する体を無理矢理丸めて、目を固く閉じた。

 ……どれくらい経っただろうか。 私は唐突に肩を揺すられて飛び上がった。
 反射的に振り返ると、風呂掃除の業者の方らしい女性が2人、心配そうにこちらを見て、「ちょっと……! 大丈夫……!?」と声をかけてきた。
 どうやらいつの間にか業者の方が入っていたらしい。 安堵からボロボロと涙が溢れる。
「やだ! どっか痛むの? 救急車呼ぼうか!?」
 慌てふためくおばさんたちに、「大丈夫です、大丈夫です、そういうんじゃないので……」 と言うと、おばさんたちは顔を見合わせて、また私を見ると、「……もしかして、なんか見た?」と聞いてきた。
 私はその返答にまた怖くなり、「大丈夫です、ごめんなさい」と言うと、急いで風呂から上がった。
 雑破に髪と体を拭き、浴衣を羽織り、ふと時計を見ると、時刻は1時30分になっている。
 あれが見えてから既に1時間近く経っていたのだ。 たかだか10分ほどに感じていたので、体感よりもかなり時間が進んでいたことが信じられなかった。
 とにかく、一刻も早くこの場から立ち去ろうと、とるものもとりあえず、展望風呂をあとにした。
 部屋に戻るのに、廊下の向こうはなるべく見ないよう、震える手で急いで鍵を開けて部屋に入った。
 と、なぜか部屋の明かりがついている。 みんな起きているようだった。
 奥から母が出てくると、髪も身体もろくに拭かないまま慌てて戻ってきた私を見て、驚いた様子で「どうしたの?アンタもなんかあったの?」と聞いてきたのだ。
「アンタも?」
 私は疑問をそのまま聞き返した。
「実はね」と母が話してくれた内容はこうだ。

 皆が寝静まった頃、小5の弟が突然叫び声を上げた。 みんな驚いて飛び起きると、弟が泣きながら布団の上に座っている。
 どうしたのか聞くと、寝ている足元から、畳をガリガリと引っ掻くような音が聞こえたらしい。
 最初は寝ぼけていたこともあり、誰かの寝相が悪いのかな? と気にせずにいたが、そのガリガリと引っ掻く音がすぐ足元にくると、今度は掛け布団をひっ掴まれたようになった。
 それと同時に、ずしり、と自分の上に何かが乗ってきて、それが自分の上を這いずり、登ってくる。
 逃げようにも体がピクリとも動かず、目線も外せない。金縛りだと自覚した。
 そしてとうとう、その登ってくる何かは、頭部が見えるところまで来てしまった。
 青白い顔をした女が、ゆっくりと顔を上げた。
 防衛反応だったのだろう、無意識のうちに叫び声を上げていたという。 可哀想に、弟は漏らしていた。
 両親と彼が弟を落ち着けて、片付けをしているところに私が戻ってきた……ということだったようだ。
「彼くんから、アンタは温泉に行ったって聞いてたから特に探しもしなかったんだけど……。ねぇ、大丈夫……?」
 母は、話を聞いて青ざめた私の肩を抱き、心配そうに覗き込んできた。
 兎にも角にも、まだ少ししゃくり上げてる弟を不安にさせたくなくて、私に起きたことはその場では黙っていることにした。
 なんとなく母が察してくれたようで、同じく心配してくれる彼や父に「大丈夫だから」といって、詳しく聞こうとしてくるのを阻止してくれた。

 その後、父と彼は運転の疲れで、弟は泣き疲れたようで、電気を煌々と点けたままにも関わらず、眠りにつくことができたようだった。
 私と母はなかなか眠ることが出来ずに、2人で話をして過ごした。
 風呂場で起こったことを話すと、最後まで静かに聴き、「清掃員の人が「なんか見た?」って聞いてきたのがひっかかるね。もしかしたらよく出るのかも」と、言っていた。
 私もその時は恐怖でいっぱいいっぱいになってしまっていたので、「大丈夫です」といって立ち去ってしまったけど、ちゃんと聞いてくればよかったかな……と、少しだけ後悔した。
「なんにせよ、もうこんなとこ二度とくるかって感じね。帰りはこんな宿をとったお父さんに責任とってもらって、高級焼肉奢ってもらおう」と、母が明るく言ってくれたので気持ちを切り替えることができ、翌朝、外が明るくなった頃、私と母はようやく少しだけ眠ることが出来た。

 チェックアウトの時、騒々しい仲居さんに「またいらしてくださいねぇ〜」と笑顔で手を振られたが、一同、顔を見合わせて苦笑し、小さい声で「二度とくるか〜」と呟いたのは言うまでもない。
 帰宅後、念のために神社で厄払いをしてもらい、その後は特に何も起きていない。
 最近、ふと思い出して例の旅館をネットで検索してみたところ、検索ワードに「心霊」など、不穏な文字がヒットして驚いた。
 父、もしかして知っていたのでは……?
 ちなみに、数年前にリニューアルオープンしたようだが、まだ営業中だ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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