坂道に面した、家族向けのアパートに住んでいた。
わたしの部屋の窓からはちょうど坂道が見える。
道路の向かいには年金事務所とか浄水センターとかそういった施設が並んでいて、夜になると人がいなくなるので静かなのが気に入っており、冷暖房が必要のない時期はいつも窓を開けて風を通していた。
当時専門学生だったわたしは窓の前に置いたデスクでパソコン作業をしていた。
時刻は深夜二時を回っていた。
そろそろ休憩しようかとヘッドホンを外すと、外から坂道を下ってくる足音が聞こえた。
高いピンヒールで足早に歩くような、カツカツという硬質的な音。
仕事か飲み会の帰りだろうか。街灯も少ないこの地域、この時間に女性の一人歩きは少しこわいな、何も無ければいいのだが。
そんなふうにぼんやりと考えながら、席を外そうとしたところである。
足音が止まった。
わたしの部屋の窓の前で、先述の通り、道の向かいにあるのは家やコンビニではなく、夕方には業務を終えて誰もいなくなってしまうような施設ばかりである。
ピンヒールを履いた人物が立ち止まるようなものはなにもない。
野良猫か何かが通ったのだろうか。そう思うこともできないような、明確な、視線を感じた。
何者かが、じぃっと、こちらを見ている。
突然強い風が吹いて、カーテンがぶわりと舞い上がる。
布の隙間から窓の向こうが見えた。
いつも通りの、なんの変哲もない、真っ暗な坂道があった。 だというのに。 カツカツカツカツカツカツ。
ピンヒールの足音が、こちらへ向かって走り出す。
咄嗟に窓を閉めた。足音はぴたりと止んだ。
あれは何者だったのだろう。 一体どこへ行ったのだろう。
なぜ、わたしの部屋を見ていたのだろう。
窓を閉めたところで霊的なものを防げるのかどうかというところは疑問に思うところだが、それから足音は聞いていない。
何事もなかったのだ、と、信じることしかできない。