マリーさん

 経営していた会社が大手企業に買収され、 多額の退職金と共に体よく会社を追い出されてしまったのを境に、ボクはもう世捨て人にでもなろうと決心して自分の趣味に生きることにした。
 子供もいなかったし、妻も数年前に死別しているので、 誰もボクを止める人はいない。自由と言うか、孤独と言うか。
 若いころからマリンスポーツが好きということもあって、 湘南の海にほど近い場所に中古の一軒家を購入した。
 小さな家だが、庭もあり、遊ぶにもノンビリするのにも、 たまに友達を集めてパーティーするのにもちょうど良い物件である。 しかも格安。
 これには友人のツテもあった。
 この家には長年お婆さんが一人で住んでいたようなのだが、病気で亡くなったらしく、 息子夫婦がこの家を相続したものの、遠方に住んでいて相続税も払えないということで、 さっそく手放すことになったらしい。
 その時ちょうど物件を探していたボクの所に、友人の不動産業者の社長から 直接この家の売り込み電話を頂いたというわけだ。
 本当ならもっと高い相場で売れるはずの物件だろうに、彼には感謝している。
 家は手入れが行き届いており、以前住んでいた方が几帳面だったことをうかがわせた。 修理も最小限で済み、快適な新生活を送れそうだ。

 引っ越しも終わって2週間くらいたったころだろうか。
 やっと荷ほどきも完了して部屋も片付き、落ち着いてきたその晩のことである。
  ベッドで横になっていると廊下の方から人が歩くような気配が感じられた。
 一瞬ドロボウか? とも思ったが、一応セキュリティにも入っているし、 誰かが侵入したなんてことがあればすぐに警備会社から連絡があるはずだ。
 ネズミかネコでも侵入したか? そう思ってしばらく聞き耳を立てていたが、音はそれきりしなくなり、 自分もいつの間にか眠っていた。
 翌朝調べてみたが、それらしき兆候もなければ戸締りの異変もなかった。 いわゆる家鳴りというものだろうか。
 だが、その判断が間違いだったことがやがて判明することになる。

 その日の晩、眠っていると枕元に女性が立っているのに気が付いた。
 自分はなぜか驚きもせず、その彼女をじっと見つめている。 彼女もこちらの顔を覗き込んでいる。
「……なんだこれは……ご近所の方が何か用事があって入って来たんだろうか……」
 寝ぼけた頭でおかしなことを考えていた。そんなはずはないのだが。
 すると女性が小さな声でしゃべり始めた。
「……ここはわたしのいえよ……あなたはだれ……」
 ハッとして目を覚ました。
「……夢? ……だったのだろうか」
 そこからは眠れなかったので起きてコーヒーを沸かして、 ゆっくりと今の夢を思い返してみた。
 長い髪を後ろでまとめ、質素で目立たない、 それでいて清潔感のある服装をした細面の女性だった。
 その彼女が「ここは私の家」と宣言していた。 という事は、彼女はこの家の元の持ち主であるお婆さんのはずなのだが、 年齢はせいぜい30~40代程度にしか見えなかった。
 別人だろうかとも思ったが、ふとある出来事を思い返した。
 自分の母親が齢八十で亡くなった時、やはり夢枕に立ったことがあるのだが、 その時の母は自分より若い30代くらいの見た目になっており、 長年苦しんだ病気もすっかり消え失せ、元気に笑って動き回っているのである。
 ボクと、若くなった母は抱き合って笑いあい、そのまま転げまわるようにして大喜びした。
 夢から覚めた時、ボクは泣いていた。
 その夢を見た後からは、母親の死も前向きに受け止めることができるようになった。
 人はもしかすると、死んだあとは自分が一番元気だったころの年齢の姿を 取り戻せるのではないか? そんな妄想が頭に浮かんだ。
 それならば、かつての住人のお婆さんが若い姿で現れた理由も納得できる。
 が、これはあくまでも単なる思い付きであり、確証がある話ではない。
 いろいろ考えているうちにだいぶ落ち着いてきて、 これはただの夢なんだと、自分に言い聞かせることができるようになった。
 それからも何か得体のしれない音や、気配を感じることがあったが、 すべて気のせいだと自分に言い聞かせ、気にせず普通に生活することにした。

 ある日の昼下がり。
 スーパーで買ってきた食材をテーブルに広げ、料理としゃれこんでいた。
 突然カルボナーラが食べたくなって、市販のソースではなく、 具材をきっちり買ってきて、ちゃんと自分で作ろうと思い立ったのだ。
 ベーコンの良い物も手に入った。 卵は室温に戻してある。
 生クリームに、それから粉チーズ用のパルメザンも準備した。
 ワインも以前買った上等なものがある。
 こんなもの、いつまでも保管していても無意味だろうから、 今日開けて飲むことにした。
 キッチンに立ち、まな板の上のベーコンにゆっくり包丁を入れていると、 裏庭の方の開いたドアから気持ちの良い風が流れてきた。
 ふと見ると、そこに人が立っている。
 一瞬ギョッとして、 包丁を持ったままたじろいだ。 そこには夢で出会ったあの彼女が立っていた。
 風に生成りのスカートが少し揺れて、まるで本当の人間がそこにいるかのように自然に立っている。
 そして彼女は何かを指さし「ここにローズマリーがあるから、使ってください」 と言ってうっすら消えていった。
「えっ?」
 ボクは一瞬きょとんとして、それから急いで彼女が立っていたあたりまで走った。
 辺りにはもちろん誰もいないし、そもそも裏庭には簡単に人は出入りできない。
 しゃがみこんで彼女が指を差したあたりを見ると 確かにハーブの一種であるローズマリーが植えてある。
 ローズマリーだけではない。よく見るとバジルもあるし、紫蘇もある。
 それにラベンダーのような花もあるし、見たこともない花や植物がいろいろ植えられていた。
 自分は勉強不足でそれほどたくさんハーブは知らないが、 もしかするとこの裏庭にある植物はすべて何かのハーブなのではないだろうか?
 彼女はここでハーブを育てて生活していたのではないか? そんな考えが頭に浮かぶ。
「そうか、ローズマリーか。これは肉によく合うハーブだったはずだ」
 さっそくひとつまみローズマリーを頂いて、洗って刻んでベーコンと合わせてみた。
 果たして出来上がったカルボナーラは、 思わず「ボォーノ」と口から出てしまうほどの美味しい出来となった。
「うん、これなら今度パーティーの時にみんなに振舞ってあげられそうだ」
 裏庭を眺めながら、彼女の事を思い返した。
「丹念に作っていたハーブを、使って良いと言ってくれたってことは、 ボクはここに住んでも良いって認められたのかな?」
「そうだ、ローズマリーの事を教えてくれた彼女の事、マリーさんって呼ぼうかな」
 ちょっと浮かれすぎているだろうか。
 ボクは今は見えないマリーさんのために、小皿とワイングラスを用意して まるで二人で食事するかのようにセッティングした。
「乾杯しますよ、マリーさん」
 そう言ってグラスにワインを注いだ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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