夜に……来る

 都内でOLをしている夏子はその日、姉の恵子さんから相談を受け、恵子さんの住む家に泊まりに来ていた。
 恵子さんは一年前夫と別れ、現在は一人娘である、まだ小学生になったばかりの愛美ちゃんと二人暮し。
 女で一人シングルマザーである恵子さんの頼みとあって、夏子はひとつ返事でそれを了承したのだ。

 さて、その恵子さんの相談というのが、少し変わった内容だったので、夏子はそれが気がかりで仕方なかった。
 その内容とは、恵子さんが夢遊病かもしれないという事だった。
 姉の話によると、最近よく眠れず、しかも目が覚めると家の外に出ていたという事があったと言うのだ。
 夏子は医者には相談したのかと聞くと、恵子さんは既に診療所にも行ったらしく、やはり夢遊病を疑われ、薬も処方されたとの事。
 それでしばらくは落ち着くかと思いきや、やはり同じ状況が続くのだという。 夏子は姉の事が心配になり、たまにはゆっくり休ませてあげたいと考え、休日を利用して姉の家に泊まる事にしたのだった。
「じゃあ先に休ませてもらうわね、夏子……?」
 パジャマに着替えた恵子さんが、寝室の前でふと立ち止まり夏子に振り返った。 その顔は以前と比べ少し 痩せこけた様に見える。
 睡眠不足が原因なのだろうと、夏子は不安げに思い恵子さんを見た。
  居間のテーブルでは愛美ちゃんがお絵描きをしながら楽しそうに遊んでいる。
「何姉さん?」
 夏子が答えた。
「ありがとう……」
「いいって気にしないで、それよりゆっくり休みなよ姉さん」
 そう言って夏子が微笑むと、恵子さんは小さく頷き寝室へと入っていった。
「お母さんお休みするからちょっと静かに遊ぼうね」
 夏子がそう言うと、隣にいた愛美ちゃんは素直に頷いて見せた。
 それから暫くした後。 時刻は午後23時、そろそろ愛美ちゃんも寝かせないと、そう夏子が思った矢先の事だ、 ──ガタッ 寝室から物音がした。
 トイレかな? と、夏子は思い寝室に目を向けた。 すると、何やらゴソゴソと音が聞こえてくる。 トイレではないようだ。
 何かあったのかと思い、夏子は立ち上がり、様子を見ようと寝室へ向かい扉を微かに開いた。
  暗がりの中、人影が見える。 姉の恵子さんだ。 どうやら着替えているらしい。
「どうしたの姉さん?」
 夏子は思わず声を掛けた。 だが、聞こえていないのか、恵子さんから返事はない。
 それどころかよく見ると、どうやら外行きの服に着替えている様子。
「姉さん?」
 姉の行動が理解できず夏子が混乱していると、恵子さんは一通り着替え終え、扉へと近づいてきた。
 慌てて扉から離れ姉の様子を伺う。
 もしかしてこれが夢遊病なのかと、夏子は不安に駆られた。
 話には聞いた事はあるが、着替えまでしてしまうものなのだろうか?
 戸惑う夏子を他所に、恵子さんは遂に部屋を出て、玄関に向かうとそのまま靴を吐き始めた。
 目は開いているが、その瞳は何処かとろんとしていて、虚ろな表情をしている。
 姉の変わり果てた姿を見て夏子は思わず息を飲んだ。
 が、それに反して娘の愛美ちゃんは微動だにせずお絵描きを続けている。
 何かがおかしい、でも今はそれどころでは無い、姉を止めなくては、そう思い立ち夏子は急いで恵子さんの前に回り込んだ。
「姉さん? しっかりして姉さん!」
 恵子さんの肩に手を置き、夏子は揺さぶってみたが、姉の表情は無反応のまま。
「姉さん! 起きて姉さん!」
 更に揺さぶろうとする夏子の手を、恵子さんがおもむろに掴んだ。
 その力はとても姉のものとは思えないくらい強く、夏子の手はいとも簡単に払い除けられてしまった。
「姉さん!?」
 扉を背にし、思わず体勢を崩ししゃがみこむ夏子が、恵子さんを見あげながら叫んだ。
 そんな夏子を無視するかのように、恵子さんは扉のドアノブに手を伸ばし、当たり前のように扉を押し開き、外へ出ようとした。
「だめ、姉さん起きて!」
 夏子は必死に手を伸ばし開いた扉を再度閉じようとした、その時だ。
「えっ?」
 夏子から呆気に取られたかのような声が漏れた。
 僅かに開いた扉、その隙間から伸びる小さな腕。
 数秒ほど時間の流れが止まった様に感じ、夏子は呆然としてしまった。
 最初は理解ができなかったが、徐々に異変に気が付く。 突然背後の扉の隙間から、夏子の顔を掠めるようにして伸びた腕は、一体誰の腕なのか?
 目の前には姉の姿、その奥には楽しそうにお絵描きを続ける愛美ちゃん。
 では、この扉の外から伸びた小さな腕は一体?
 整理しようとすればするほど頭は混乱し、パニックに陥っていく夏子。
 反射的に夏子が後ろを振り返ろうとした時、にゅっと、更に無数の小さな腕が背後から飛び出し、恵子さんを掴もうと手を広げ空を切った。
「きゃあああ!!」
 夏子が思わず叫びながら、玄関から這いずるようにして飛び退いた。
 扉の方を見ると、開いた隙間から伸びる無数の手と、暗闇に蠢く人影、そして妖しく爛々と光る瞳が、中の様子を伺う様にして、こちらをじっと見つめている。
 その時だった。
 突如居間の方から、 「ママ~皆と遊ばないのお?」
 愛美ちゃんだ。
 デーブから立ち上がり、玄関に立ち尽くす恵子さんの背に声を掛けた。
 唖然として愛美ちゃんに振り返る夏子。
「え? え? えっ?」
──ガチャン
 音に反応し振り向くと、そこにあの無数の手はなく、扉はいつの間にか閉まっていた。
 そして、それまで立ち尽くしていた恵子さんの体が、まるで糸の切れた人形の様に崩れ落ち、玄関のマットレスの上に横たわった。
「姉さん!?」
 静まり返った部屋に、夏子の悲痛な声だけが大きく響く。
 その光景を、愛美ちゃんが首を傾げたまま、じっと、何時までも見つめ続けていた。

 以上が、妹の夏子が、姉の恵子さんの家で体験した話だ。
 あれから、恵子さんの夢遊病は改善し、以前のような事は起きなくなったという。
 ある日、そんな恵子さんから夏子に電話があった。
「ねえ夏子、貴女が泊まりに来た時、私ったら記憶が一切ないんだけど、あの後、愛美が何かおかしな事言ってたのよね、貴女何か愛美に言った?」
「ううん……別に……特に何も……」
 暗い声で返事を返す夏子。
「そう……? ならいいんだけど」
「因みに……愛美ちゃんはなんて言ってたの?」
 聞き返す夏子に、恵子さんはこう答えた。
「お友達はもう呼ばないから大丈夫だよって、どういう意味かしらね。あの子前にもお友達呼んでいいって聞くから、良いよって言ったんだけど、結局小学校に上がっても、一度もお友達家に呼んだことないのに……」
 それを聞いて、夏子はあの恐怖の一夜の事を思い返していた。
 気絶した姉をベッドに寝かせた後、不思議がっていた愛美ちゃんに尋ねた事を。
「ねえ愛美ちゃん……ママに遊ばないのって、どういう事……?」
 夏子の言葉に愛美ちゃんは普段と変わらぬ様子でこう答えた。
「前にママに聞いたの、お友達家に呼んでもいい?って、だから呼んであげてたの、でも愛美のお友達夜にしか来れないから……」
 そう言って俯く愛美ちゃんに、夏子は何かを察したかのように、僅かに震える声で言った。
「ねえ愛美ちゃん、連れてきていいのは……連れてきていいのは、生きている人だけ……お姉ちゃんと約束して、いい……?」
「うん……分かった」
 そう言って愛美ちゃんはテーブルに戻り、お絵描きを続けた。
 A4サイズの紙には、中央に愛美ちゃんと姉の恵子さんらしき人物、そしてその周りを囲むようにして、黒く塗りつぶされた子供達が、大きく手を振り上げている様子が、色鉛筆で描き殴られていた。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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