絵の女

 後輩のTから聞いた話だ。
 Tは高校生の頃、学校まで電車を利用して通学していた。
 しかし何せ、その辺を歩いている人が珍しいくらいの田舎の事、駅は無人駅で待合のホームは申し訳程度のスペースしかない。
 電車は一時間に一本しか通らず、寝過ごしてしまおうものなら一時間ものあいだ、何もないところで待ち続けなければならない。おまけに学校は遅刻する。
 そうならない為には少し余裕を持って家を出ればいいだけのことだが、残念なことに、Tは低血圧のため、朝早いのがとても苦手だった。
 だからTが遅刻生徒の常連に名を連ねるのはごく自然なことで、Tとしても一本遅い八時台の電車に乗るのならば、家でもう少し寝ていられるので好都合な事だった。
 一時間目は出れなくなり勉強は遅れてしまうが、クラスメイトのノートを借りるようになってからは毎日一本遅い電車に乗るのが当たり前になった。

 そんなある日、それでも寝過ごしてしまい、更に一本遅れた九時台の電車に乗る機会があった。
 この時間になると通学する生徒の姿は見えず、ホームにも年寄りが二人ほどいるのみで、いつもより閑散とした雰囲気になっていた。
 そんなホームに腰を落ち着け、残り一時間と少し、スマホを弄りながら暇を持て余して電車が来るのを待った。
 ふと何の気なしに、壁にかけてあるお知らせ掲示板に目をやると、毎日目にするいくつかの張り紙の中に、初めて見るものがあった。
 それは四角形の少し黄ばんだ白紙に、鉛筆で描いたような線で人間の顔のようなものがうっすらと描かれている、といった奇妙なものだった。
 四隅の左上のみに画鋲が打たれ、少し傾いた形で乱雑に張られており、小さいながらもその異質さ故か、人の目を引くように作られた色とりどりの掲示物が却って引き立て役となり、妙に目立って見える。
 Tの座る位置からでは遠目に見えるだけだったので、もう少し詳しく見るために近づいた。
 描かれていたのは、女性の顔だった。
 向かって左側に首を傾げ、髪は肩より短く顔の歪んだ女性の胸辺りまでが描かれていた。
服を着ているようには見えず、かといって裸というわけでもない。首から下は輪郭だけが線で表されており、かといって顔も特に細部まで描き込まれているわけではなく、安っぽい福笑いのように簡素な線で描かれているだけ。
 ただそれだけの落書きだったのだが、Tは何故かこれが不気味で仕方がなかった。近づいて「女の顔が描かれている」と分かった途端、寒気が全身を巡った。
 なんとなく気味が悪いのでそれ以上は見ず、やがてやってきた電車に乗ってそそくさと学校に向かった。

 それから二、三日経ったころ、いつもと同じように電車に乗ろうと駅に向かうT。
 待合室を抜けた先の駅のホームには申し訳程度に屋根があるのだが、それを支える一本の柱に、以前目にしたあの「女の絵」が張ってあるのが見えた。
 打たれた画鋲の跡は何故かあるように見えず、かといってコピーされた紙のようには見えない。少し黄ばんだ紙の質感は、触った訳では無いが一見すると同じもののように思えた。
 Tは一瞬どきりとしたが、掲示板に張ってあったのだから、誰かが面白がってイタズラしたのだろうと思い直した。事実、Tは驚かされたのだから、その誰かの目論見は成功したと言える。
 半ば呆れつつ、自分の中で答えが出てすっきりとしたTは学校への電車に乗り込み、日常へと戻った。
 この女の絵の移動が、Tにとって冗談では済まされなくなったのは、それからまた数日後のことだった。
 ある日Tが学校の校門前まで行くと、妙な人集りができていた。その中に同じクラスの仲の良い友人の姿を見つけたので、何事かと聞いてみると、友人は無言で門柱を指さした。
 Tはその先を目で追って、思わず驚嘆の声をあげてしまった。
 校名の彫られた方の門柱に、あの絵が張ってあったのだ。
 何人かの生徒が口々に憶測を飛ばして友人たちと盛り上がっていたが、その多くはこの絵を初めて見たという口ぶりだった。その後にクラスメイト何人かに聞いては見たが、誰も以前から知っているものは居なかった。
 こうなると三回目の遭遇をただの偶然だと片付けるには難しく、誰かが意図的に自分に見せようとしているのではないか? とすら思えた。

 その後、校内の掲示板、廊下、果てはTのクラスの前、と、絵は校内に度々現れ、学校中に絵の女の噂が広まりきってしまい、仮に「誰かが意図的にやった」のだとしたら、その犯人探しすら困難な状況になってしまった。一時期、校内ではこの絵にまつわる噂話が蔓延り、ちょっとしたブームが起こってさえいた。
 ありもしないような怪談話が作り上げられたり、絵の女が飛び出して出てくる、出てきた女が時速数百キロで追いかけてくるなどといった素っ頓狂な噂すらあった。
 いよいよその絵がTのクラスの教室内にまで現れたとき、いい加減に業を煮やした担任の先生が目の前で破り捨ててしまった。
 始めこそその担任に「祟りが起こる」と生徒が散々囃し立てていたが、特に何事も起こることはなく、時間の経過とともにあれだけ騒がれていたはずの噂話も無くなっていった。
 数週間経ち、Tも含め皆すっかり絵の女のことなど忘れた頃のこと。
 友人と二人で下校している途中、道端の電柱に何かが張られていた。それは遠目から見ても薄っすらと女の顔の輪郭が見て取れ、その時点で嫌な予感がしたTだったが、友人が駆け寄って勢いよく電柱からむしり取り、興奮した様子でTにも見せつけてきた。
 違う絵であってくれと思ったものだがその期待も虚しく、見紛うことなくあの女の絵だった。前に見たものと寸分違わぬ絵に、Tは思わず寒気を覚えた。
 あの日クラスメート全員の前で担任に破り捨てられたはずの女の絵。誰かがこっそりとコピーしたのなら話は変わってくるが、Tの目にはもう同じものにしか見えなかった。実際、初めてTがそれを目にした駅の掲示板、そこで見た紙の材質とそっくりだったからそう思うのも無理はなかった。
 ここ数日の間で何回も目にしたはずの絵だったが、Tは何故か目にする度に言い知れぬ不安感が募っていくのを感じていた。
 興奮した様子の友人をその場に置いて、思わず駆けて帰ってしまった。
 その日は寝床で、何故か頭から離れない絵の女に睡眠を邪魔され続けてしまい、満足に寝れなかった。
 翌日起床して駅に向かう道中、家の前の電柱に、あの女の絵があった。

「そこからは良く覚えてないんですよ」
 Tはそう言って、目線を宙へ向けて首を傾げた。
 その後にまつわる話、例えば絵がどうなったのかだとか、どれも一枚の同じものだったのか、誰かのイタズラだったのかどうなのか、Tには何も分からないそうだ。
 いつの間にか誰もその話をしなくなり、時が経つに連れて段々と誰もがどんな絵だったかを忘れていき、クラスメートが全員卒業する頃には誰もその話すら覚えていない状態になってしまった。
 だからこの話を覚えているのはTだけになってしまった。
「その時は思い至らなかったんですけど、写真くらい撮ればよかったです」
 T曰く、「写真を撮る事により、その女の顔の記憶をその写真だけに収めれるから」という理屈だそうだ。
 もし顔を忘れても、写真を見れば思い出せるという余裕から、脳が顔を覚える事を怠ける。だからこんなに強烈にあの顔を覚えてることもなかったのに、とTは嘆いた。
「今でも鮮明に焼き付いてるんですよ。何なら、自分で描けるくらい」
 そう言ったところで、Tははっとしたような表情で「……顔を覚えてる誰かが、新しく描いてたんだとしたら」と呟いた。
 分かりやすくTの様子がおかしくなってきたので、話を切り上げて彼を帰らせた。

 もしTの仮説通りなのだとしたら、考えれば考えるほど、私にはそれが「絵の女の意志」なのではないかとしか思えない。
 人の記憶に寄生し、自分の顔を忘れさせないようにして、存在し続ける絵の女。
 彼女の正体が何なのか、答えは今のところ出せそうにない。

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