遡及する傘の男

 ことの始まりは、引っ越した先の土地で不審な男を見た、あの時からだった。
 その日は強烈な夕立に降られていた。
 蒸し蒸しとした空気の充満する不快な電車の車内から飛び出し、最寄りの駅から自宅まで必死で走っていた時のこと。
 あと何回か交差点を折れると自宅マンションが見えてくるのだが、その途中、住宅街の角に立つ電信柱の影から、傘のようなものが顔を出しているのが見えた。
 雨の帳に邪魔されよく見えないが、どうやらそこに誰かが佇んでいるようだった。
 こんなに酷い夕立なのに、何をやっているのだろうかとはじめは疑問に思ったが、なにせ突然の土砂降りだったので呆然とするのも分からなくはない、とすぐに思い直した。
 私は、少しでも雨避けになればと頭の上に乗せた通勤カバンを握り直し、その電柱の横を足早に通り過ぎる。影に佇んでいる誰かの姿が見えてくると、肩口がびしょ濡れなのに気付いた。
 気の毒にな、と思いながらもその人の脇を駆け抜ける。
 一瞬だが、ちらりと顔が見えた。傘を差して俯いている様子だったのであまりよくは見えないが、それは男性のようだった。
 一見普通に見えたが、何かがおかしかったような気がする。その時は雨から逃げるのに必死で気を取られていたのだが、後で思い出した。
 彼は顔色が変だったのだ。
 体調が悪かったのか、そういう病気の人なのか、とにかく尋常ではないと感じる色だった気がする。
 しかしそれも、家に辿り着いてしまえばもうどうでもよくなった。
 無事に帰れたという安心感と、妻が沸かしてくれていた温かい風呂に入れるという多幸感が、あの男のおかしな様子や、その後無事だったかなどを汚れた身体と共に洗い流していった。

 これだけなら何でもない話だが、その男は度々私の前に現れた。
 たまに見かけるのなら、「またあの人か、偶然だな」と考えるだけで特に気にしない。だがこの男は、比喩ではなく毎日私の前に現れた。
 奴は必ず、会社からの帰り道、最寄り駅から自宅までの道のりに立っている。場所こそ違えど、いつも何かの物陰から傘だけを見せて佇んでいる。
 特にこちらを見るでもなく、ただ俯いてじっとそこに居るだけ。私に害をなしてきたりなどは一切ないのだが、その様子が逆に不気味過ぎた。
 尾けられている様子は無かった。電車に乗る前、会社近くの街の中で彼を探した事もあるが、それらしい姿は見かけなかったからだ。
 何度も振り返ったり、物陰に注目したりしたが、街の中では遭遇しない。駅から自宅までの閑静な道のりにしか出没しないのだ。
 もう一つ気づいたのは、決まって彼を見る時は、周りに誰もいないということである。
 これがまた不気味さを加速させていた。
 恐らく彼は、どこの街にもよくいる「少しおかしな人」の一人だろうとは思う。
 私が子供の頃も、住んでいた田舎町に「あかじい」と呼ばれていた有名な老人が居た。
 いつも酒を飲んで酔っ払っており、通学路を通る小学生に執拗に絡み、要注意人物として学区内の連絡網やPTAなどで良く注意喚起がされていた。
 誰かに危害こそ加えなかったが、訛りが強く呂律が回っていない早口で、酒臭い息を振りまきながらいつも何事か喚き散らしていたので、小学生からは相当に忌避されていた。
 この傘の男も、そういう類の人間なのだろうと思った。
 私が住む住宅街も子供はたくさんおり、学校の通学路もあるので、きっと傘の男にも変なアダ名がつけられたりしているのだろう。
 あの男が実在する人間で、尚且つ危害を加えないのなら、気にしないで放っておけばいいだけのことだ。
 ただ、それが毎日続くとなると流石に気味が悪い。不審者として通報しようかとも考えた。
 そこで気付いた。私でなくとも、他にこの男を見ている人間がいるのなら、その誰かが先に通報しそうなものではないか?
 どちらかというと事なかれ主義の私だが、他人ならどうだろうか。学校の通学路が近くにあるのなら、子どもたちの噂話が親の耳に入って通報、などはよく聞く話だ。
 だったら私が知らないだけで、もう既に彼は警察など第三者機関から厳重注意を受けているのではないか。
 しかしそうだとしたら、注意を受けているにも関わらず毎日出没している、ということになる。
 越してきてひと月が経つ頃にはもう、彼が人間だろうが幽霊のようなものであろうが、どちらにせよ恐ろしいとしか思えなかった。
 そしてある日を境に、その男はパッタリと現れなくなった。
 彼を見た最後の日、彼は初めて彼を見たときと同じ電柱の影に居て、いつも差していた傘を地面に落としていた。
 そして、前かがみのような格好で大きく上半身を電柱の影から突き出していた。
 いつもと違う様相にぎょっとしたが、私はいつもの如く無視して通り過ぎようとしたのだが、距離が近くなるにつれ、彼がこちらを向いている事に気が付き、鳥肌が立った。
 こちらを見つめる目も。鼻の形も、あんぐりと開けた口もハッキリと見えたが、それ以上に注目したのはその顔色。
 彼の顔は、全てが真緑だった。
 その時初めて、こいつは人間じゃないと悟った。
 本能が警告し、瞬間目を逸らし、できるだけ平静を装っていつものように通り過ぎる。
 目線の端で、彼が顔ごと視線で私を追っているのがわかったが、それでも真正面の何もない路を見つめ続けた。
 そうして、腕を掴まれるでも、声をかけられるでもなく、何事もないまま通り過ぎ、それ以降彼の姿は見なくなった。

 傘の男は見なくなったが、それと引き換えるように、その頃から妻が病床に伏せてしまった。
 医者に見せても詳しい原因は分からず、天真爛漫だった妻が日に日に暗くなり、やせ細っていく姿を見るたびに辛くなった。特に、何故か体中に浮き出る発疹の悍ましさは見るに耐えなかった。
 看病しに行くたび、寝ている時に必ずと言っていいほどうなされ、うわごとのように「日記が」と繰り返し呟いていた。
 あまりにもそのうなされ方が尋常ではなく、最終的に発作のようになり、毎回看護師が飛んでくるという始末。
 流石に何かがおかしいと感じ、私は妻の言う「日記」が、精神的に影響を及ぼしているのではないかと考えた。
 何をやっても一向に良くならない妻の体調が、少しでも快調に向かうなら、どんな原因だろうと排除したかった。
 果たして日記はすぐに見つかった。
 それはかつての同級生、恐らくは学生時代の恋人と思しき相手との交換日記であり、その内容は他愛のないもので、概ね問題は無いように見えたが、後半のページに気になるものを見つけた。
 日記の隅にある「今日の一文字コーナー」と称された、お互いに一日ごとに一文字を書いていく、というものだ。
 それ自体はなんてことのないものだが、最後のページに妻の文字で書かれていた文章が目を引いた。
 そこには、一文字コーナーに書かれた字を繋げたものがあったのだが、妻の方は繋がった文章、相手の方は変な記号の羅列が書かれていた。
 妻の方は日本語の文章ですぐになんと書いてあるのかわかったが、相手の方は不思議な記号で読み取れない。
 が、それが反転した英字だと気付き、書き出してみると言葉になった。
 二つの文章になにか不穏なものを感じ、私はそれを妻の友人に相談することにした。
 いつもお見舞いに来てくれていたリエという子だが、妻が元気だった頃も良く遊びに来てくれており、ある時怖い話で盛り上がった際、実は昔は霊感のようなものがあり……という話を聞いたことがあったからだ。
「その日記はもう処分した方がいいです」
 中身をひと通り見てから、彼女はそれだけを言った。本人からもこの日記については相談を受けていたらしく、早めの処分を勧めていたという。
 詳しくは彼女も話したがらず、あの文章になにか意味があるのかと訪ねても要領を得ないようなことしか言わなかった。
「言葉自体に意味はないんです。それに伴った強い思念と、何よりやり方がマズイ。それはインクなんかじゃない。もうどうしようもないから、事故に遭ったようなものだと諦めるしかないですよ」と。
 私が見た傘の男はなにか関係があるのか、とその話を彼女にしてみたところ、目を丸くして驚いており、それはこの男ではないかと、卒業アルバムの写真をスマホで撮ったものを見せてきた。
 そこに写っていた「マジマケンタ」という男に、確かに見覚えがあった。
 少し垂れ気味の目尻、気持ち低めの鼻……あの傘の男に顔立ちが似ていた。
「あなたも、もうこれ以上関わらないほうがいいと思います」
 そう言って、彼女はそれきりお見舞いにも来なくなった。
 その日の夜、妻の看病の帰り道。久しぶりに傘の男を見かけた。
 暗がりの中、雨も降っていないのに傘を差し、電柱の微かな光の下で佇んでいる。
 私はなんとも言えない気持ちでその脇を通り過ぎていく。横を通る瞬間、視界の端で奴の口角が上がっていることに気付いた。奴は、満面の笑みだった。
 込み上げてくる強い激情に身を任せて奴に飛びかかるも、私の腕は虚空を掴んだ。そこにはもう誰もいない。
 やり場のない怒りをどこにぶつけていいかも分からないまま、私は一人悪態をつきながら帰路についた。

 そうして、何も出来ないまま妻は衰弱して死んだ。
 元気だった頃の面影もなく、体中に発疹が浮かび上がったまま、苦しんで死んでしまった。
 看取る瞬間、視界の端に傘が映ったような気がした。
 それで気付いた。奴はずっと近くにいたのだ。
 街の電柱の影で。ゴミ捨て場の影で。私の家の寝室で。妻の病室で。あの緑の顔をこちらに向けて、私を嘲っていた。
 奴は、いつもすぐ近くで、ずっとその時を待っていたのだ。妻が死ぬその時を。

 独白 二

 呪いは、術者の証明として自らの血を用いて、触媒を通じて対象に思念を届けることで成立する。
 少なくとも、彼女がかけられたものはそうだった。
 私はなんとかしようと頑張った。けれどもう、どうすることも出来なくなってしまった。
 術者は死んだ。死ぬことによって自分も呪いの一部になっている。
 呪いの起点がないのなら、終点がないのも同じだ。
 終わらないどころか、これは周りを蝕んでいく。

朗読: ごまだんごの怪奇なチャンネル

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