遡及する交換日記

 結婚を機に引っ越すことになり、荷物の整理をしていた時にそれを見つけた。
 中学校の頃に付き合っていた男子と交わしていた「交換日記」だ。
 まだまだ引っ越しの作業は溜まっているが、その表紙と相手の名前を見てついつい懐かしさがこみ上げ、休憩を兼ねて読んでみることにした。
 交換日記の相手は「マジマケンタ」という男子だった。中学時代の彼氏だったが、あまり恋人同士という感じではなかった。
 中学の時の恋愛など、所詮は子供のお遊びの延長線上に有るもの。
 放課後にこっそり会って他愛のない話をしたり、休みの日に近くの公園でデートに似た散歩をしてみたり、ドラマの見様見真似でキスをしてみたり、その程度のものである。
 その時期といえば思春期の真っ盛り、異性に興味が出てくるし、恋愛を体験してみたいお年頃なので、青春の追い風に煽られた勢いでつい、というのが正直なところで、特別ケンタが好きだったとかそういう事ではなかった。
 今思い返すとそんな気持ちで付き合っていたのは悪い気もするけど、彼もきっと同じような感覚だったと思う。
 幸か不幸か、その二人の距離感ゆえに、キスはすれどもそれ以上の事には決して発展しなかった。
 その交換日記は、ラミネート加工されたフィルムで表紙が覆われ、ボタン付きのバンドで閉じれるようになっているタイプの手帳で、その当時よく女子の間で流行っていたノートだった。
 ご丁寧に「三年一組 タニカワユミ」と名前まで書いてある。
 手に取ってみるとより一層懐かしさがこみ上げ、しばらく青春時代の記憶に思いを馳せる。
 友達と過ごした時間、得意ではないながらも頑張った勉強、汗を流して一生懸命になれた部活動……。
 ノスタルジーに包まれながらページをパラパラと開いてみても、その内容の殆どは覚えていなかった。もう何年も前のことだから仕方がない。それでも、消えていく記憶に寂しさを覚える。
 どのテレビ番組が好きか、好きな音楽はなにか、行ってみたい場所はどこか。そんな他愛のない交換日記が続く。ケンタが書いていた内容も似たりよったりだった。
 そしてふと捲ったページに、「今日の一文字コーナー」というのが際立って書かれていた。
 色とりどりのペンで枠取られ、仰々しく手帳の一ページの四分の一ほどをこのコーナーが占拠しているにも関わらず、そこに書かれていたのは「で」という平仮名一文字だけ。
 思わず私は過去の私を笑った。中学生の乏しい発想力ではこれが限界だったのだろう。
 確かにこれより以前の交換日記は長く続いており、そろそろ書く内容も無くなっていたであろう事は伺える。
 だからと言って、中学生にもなって「今日の一文字」がひらがな一つとは。せめて新しく習った漢字なり熟語なり、英単語なりでも書けばよかったのに。そう思うと余計に羞恥心をくすぐられる。
 次の日記でも自分は一文字を書いていた。どうやらこの下らないコーナーは、中学を卒業したらしき日まで続いたようだ。途中、ケンタも真似をしていたのが笑えた。
 乱雑にボールペンで四角を書いて枠を取り、コーナーを設けていたが、書いてあるのはどれも意味の分からない、日本語ですらない記号のようなものばっかりだった。
 どうせ自分で考えた記号だとか適当なものを書いて暇つぶしをしていただけだろう。
「3」とか「○」とか記号のときもあれば、「つ」という平仮名が混じったり、「の」が反転しているものだったり。くだらないものしかなかった。
 ふと何の気無しにペンを手に取り、日記の空いたページに、私の「一文字コーナー」で書かれたひらがなを書き出してみた。
 特に何か気になったわけではないのだが、「この書かれ続けた一文字を繋げてみるとどうなるのだろう?」ただそれだけの気まぐれだった。
 そう思うが否や、早速書き出してみる。
「で」
「ま」
「つ」
 特に意味のある単語にはならないが、まだ文字はある。私は続けた。
「か」
「わ」
「を」
「り」
 やはり言葉にはなっていないようだ。中学生の発想ごときに過度に期待しすぎたかと自嘲するが、残り四文字だけだったので一応最後まで書き出してみることにした。
 出来上がった文章を横に並べてみる。
「で ま つ か わ を り た ふ が し」
 並べてみても意味は通らない。
 やはり何でもなかったかと落胆し、馬鹿馬鹿しくなって手帳を閉じようとして、手が止まった。そして、気付いた。
 最初は意味の通らない文、ただの一文字一文字を左から右に目で追っているだけだった。
 何の意味も狙いもなく、ただ左から右に、無意識に文字を流して読んだだけ。そして次は右から左に、つまり逆に読んだだけだった。そうしたら。
「し が ふ た り を わ か つ ま で」
 文章になった。
 ただ逆から読むだけで、何のひねりもない。それでも、意味が通るようになってしまった。
 その内容に思わず寒気を覚える。
 死が二人を分かつまで。
 いつか観た、洋画かなにかで聞いた覚えがある言葉だった。その言葉の日本語訳の文章。これは結婚式の時の誓いの言葉の一節だ。
 キリスト教の教会で、神父だか牧師だかが新郎新婦に向かって聞く、その一節。この後は「健やかなるときも病めるときも~」と続いていく。
 自分は、こんな事を意識して書いたのだろうか?
 もはや判然としない中学生時代を賢明に思い返したが、少しも思い当たらない。この一文字コーナーの事すら忘れていたのだ、こんなこと全く覚えがない。
 この言葉を初めて聞いたのも、大人になってから見た洋画か何かがきっかけだ。当時の自分が知っているわけがない。
 それに、例え中学生の自分がこの言葉に聞き覚えがあっても、こんな面倒な方法で意味ありげな文章をわざわざ仕込むだろうか? 何のために?
 先述した通り、中学生の時の恋愛など遊びの延長線上、少なくとも私にとってはそうだった。ならば先のことを見据えているはずもない。
 特に私は、受験する高校や将来すらビジョンが明確ではなかったというのに、結婚などなおさらである。こんな風に恋愛に酔って、真剣な言葉を相手に送るだなんて考えられない。
 だが、書いてある文字は確実に私の筆跡だと分かる。自分の文字を見間違えるはずもない。
 私は言いようのない恐怖に襲われたが、たまたまこう読めただけで、偶然逆から読んだら文章になってしまっただけだと自分に言い聞かせ、手帳を閉じてその辺に放り投げた。
 面白半分で文章を書き出しただけなのに意味が通ってしまったという驚きと、内容の気味悪さが、その後もずっと頭の片隅に残っていた。

 数日経ち、引っ越しもいよいよというところで、手帳の処理をどうするか考えた。
 捨ててしまっても良いとは考えたが、一応これでも思い出の品であり、いざ捨てようと思うとどうにも気が咎める。
 どうしようかと悩んだ末、「交換日記の相手にあげてしまえば良い」という答えが浮かんだ。これは自分でも妙案を思いついたものだと思う。
 所持しているのが気持ち悪いなら、捨てずとも自分の手元になければいいのだ。
 早速中学の頃の友達のリエを伝って、ケンタの連絡先を教えてもらおうとしたのだが、それは叶わなかった。
 彼は既に死んでいた。
 ケンタの訃報はごく近しい人間か、同級生でも最近まで連絡を取っていた人にしか伝わっていなかったらしい。リエも最近聞いたとの事だった。
 あまりの衝撃に、それを聞いた時は月並みだが頭が真っ白になった。
 同級生が死んだというだけでもおおごとなのに、それが中学生の時の彼氏で、しかも彼との交換日記には覚えのない文章があった。それも「どちらかが死ぬまで」という意味を孕んだ不気味なもの。言いようのない恐怖に背筋が粟立った。
 電話口の先で、私の様子がおかしいのを悟ったリエが心配している。
 この恐怖を吐き出してしまいたかったので、私はリエに事のあらましを一通り説明した。
 彼女は黙って聞いていたが、すべてを聞き終えたあと、静かに語り始めた。
「余計に怖がらせる気はないんだけど、彼、自殺だったんだって」
 春のお彼岸の頃、しばらく前から行方知れずになっていたケンタは、家族から捜索願を出されていたのだが、その日の夜に放置車両の中から変わり果てた姿で発見された。
 車両はマフラーを始め、窓の各所、隙間という隙間が目張りされていたそうだ。
 恐らく亡くなったのは数日前、推定だと三月十六日のあたりだという。
 どこか覚えのある日付だと思い、最後の交換日記を見てみると、その日付は三月十六日。
 ケンタは、この交換日記を終えた日を死ぬ日と決めていたのでは──。
 自分でも、あまりにも出来すぎていると感じた。が、妙な胸騒ぎがさっきから止まらない。鳥肌が立ったまま、ずっと腕に浮いている。
「……その日記は捨てたほうが良いと思うよ」
 リエの助言を受け、そうすると心に決めて電話を切った。

 旦那に手帳を捨ててくれと押し付け、その日は早めに寝てしまおうと先に寝室に入る。
 電気を消し、力を込めて目を瞑って寝に入ろうとするが、眠れるはずもない。
 この一連の話は私にとってあまりにも衝撃的で、そして不気味すぎる。
「死が二人を分かつまで」その言葉が頭の中で反響して離れない。
 どちらかが死ぬまで一緒。それまでは決して離れない。
──では、どちらかが死んでしまったら?
 その時、ダブルベッドが沈んだ。
 横の空いたスペースが大きく沈んだので、旦那も床につくのだと思った。が、おかしい。
 いつもなら旦那は、私が寝ていても起きていても、「おやすみ」と声をかけてくれる。
 それがなかった。
 不思議に思い、そちらへ寝返りを打とうとした瞬間、強烈な臭いが鼻を刺した。
 思わず声が漏れてしまう程の強い刺激臭だった。卵が腐ったような、温泉街でよく嗅ぐような……。
 そこで、リエから聞いた話を思い出した。
 車、目張り、自殺、ケンタ。
 そちらを振り向きたくはない。だけど、身体が勝手にそちらを向く。意識したわけではないし、何かの力で動かされたという感じでもない。ただ、私は振り返った。
 視界いっぱいに広がったのは、真緑に変わり果てたケンタの顔だった。

 その後私は引っ越しを無事に終え、今では新しい新居で新婚生活を謳歌している。
 良い旦那と出会い、きれいな新居に越せて、新しい友だちも出来た。不満なことは何もない、幸せな人生である。
 強いていうならば、あの日から毎晩、ケンタが私のもとへやってくる。それだけが引っかかる部分だ。
 私に危害は加えず、枕元に立って、真緑になった顔で私を見下ろしている。室内なのに日傘を差し、俯き気味でこちらを一晩中見ている。
 旦那に内緒でお祓いにも行ったが何も効果はなかった。
 これは死んだケンタの幽霊だとか、そんな生易しいものではないのかもしれない。
 私はきっとこの先、一生ケンタと一緒なのだろう。
 引っ越してしばらく経っても消えない彼の姿を見て、私はそう思って諦めてしまった。
 多分、終わらない。私が死ぬまでは。

 独白 一

 言葉自体に意味はない。
 言葉とは、その言葉を発する時に、発した人の思念が乗った音だ。
 同じように、書き記す時は、書いた人の思念が乗った印だ。
 意思や思念が、音や印に残る。
 見えない渦のように、相手を包む。
 それが優しい音なら、幸せの思念が音を拾った相手に聞こえる。
 悪い印なら、憎しみの思念が印を見た相手に刻まれる。
 呪いとは、人の思いを伝えることから生まれたものだ。

朗読: はこわけあみ【怪談朗読 Vtuber】

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