初めての男

 二十代の頃、僕は太陽の下で汗水流す、そんな仕事をしていた。

 その職場にいた、日焼けなのか肝臓が悪いのか、土気色の肌の40代独身の先輩Tさんに、初めてスナックという類いの店に連れて行ってもらった。
 スナックとか、バーとか、キャバクラとか、そういう大人が行きそうな店には一度も足を運んだことが無かったので、Tさんの後ろに隠れるようにしてカウベルが鳴る扉を入った。
「いらっしゃ~い」
 女性の声が二つ重なって聞こえた。
「あら、Tさん! 久しぶり~」
「いやいや! 二日前に来たやんけ!」
「そうやったっけ? おや、後の方は初めての方?」
 恐らくこのスナックのママであろう女性がTさんの背後を覗き込むようにして私を見た。
 五十後半くらいのヒラヒラした服を着たバッチリメイクの肥えたおば様だった。
「ピチピチの青年やで~ママ好きやろ~」
  Tさんがニヤけた声で言う。僕達以外に客は居なかったので、カウンター中央に座った。
「あたりまえやがな~男は若いに限るがな~」
 そう言いながら、おしぼりとナッツの小皿を出してきた。
「とりあえずビール!」とTさんが注文したので「あ、じゃ僕も……」と便乗した。
 ママとTさんが近況などを語りあっている間に、ママよりずっと若そうな女性が店の奥の冷蔵庫から冷えたビールとグラスを取り出して、ママのお尻で狭くなった通り道を両手を上げてすり抜けた。
「どうぞ♪」
 そう言って、それぞれの前にビール瓶とグラスを置いて栓を抜き、いい感じの泡の割合で注いでくれた。
「あ、ありがとうございます!」
「おいくつなんですか?」
「え、あ、23です……」
「私より年上さんじゃないですか。だったら、ありがとうございますは固いですよー」
  彼女はそう言ってニコッと微笑んだ。
 八重歯があり、丸い輪郭に少し垂れた目をした可愛いタイプの美人だった。
「おい、S! 俺の彼女に手え出すなよ~!」
「え? いやっ! 別にそんな……って、Tさんの? そうなんですか?」
 あたふたしていると、Tさんが「なっ! K美♪」と彼女にウィンクした。
「私に彼氏なんていませんから!」と彼女は頬を膨らませたが、またすぐに笑顔になって私に名刺を渡してきた。
「K美です。Sさん、ですね♪ どうぞご贔屓に」
 名刺を受け取るときに手が触れた。ひんやり柔らかい感触にドキッとした。

 お酒を飲み進めていくうちに、僕の緊張も緩み、カラオケを歌ったり談笑したりした。
  酔ったTさんが終始K美ちゃんにセクハラ発言やら、隙あらば身体に触れたりする度に、K美ちゃんに謝った。
 「いつもの事ですから大丈夫ですよ~」とK美ちゃんは笑顔だったが、やっぱり少しひきつった表情がうかがえた。
 あっという間に3時間が過ぎ、お開きとすることにした。
「今日は俺の奢りじゃー!」と言ったTさんに、素直に「ごちそうさまです!」と頭を下げた。
 店の外に出て、千鳥足のTさんに肩を貸しながらママとK美ちゃんに挨拶をすると、またきてねと笑顔で手を振って見送ってくれた。

 翌日、Tさんは仕事を休んだ。 酒を沢山飲んだ次の日は必ず無断欠勤をした。
 所長が舌打ちをしつつシフトを組み直すのを見ながら、所長より古株のNさんが「もう辞めさせなよ~」と声を掛けるのが一連の流れだった。
 しかし、うちの事務所は常に人手不足で、そんなTさんでも居ないよりはマシという感じで辞めさせることはなかった。
 Tさんもそれが分かっているがゆえの甘えた態度なのだ。
 それから月に1~2回はTさんに連れられてスナックに行った。
 その日も相変わらずTさんはK美ちゃんにちょっかいを出し、その度に私があやまっていた。
 私とK美ちゃんは歳も近いこともあり話も合ったので、僕の前に立つことが多くなり、ママがTさんの相手をしてをしていた。
  Tさんはそれが気に入らないらしく「Sは童貞やで」「チューもしたことないんやで」などと、恥ずかしいことをK美ちゃんにばらされた。
 屈辱に俯いていると「Sさん♪」と、K美ちゃんが呼んだので顔を上げると、K美ちゃんがいきなりキスをしてきた。
「あらー」とママが驚きつつも楽しそうに言った。
 僕はパニックになって「すん! すんませんぬ! ありゃがとござります!!」みたいなことを口走り、K美ちゃんは顔を真っ赤にしていた。
 僕自身の顔色はわからないが、たぶん同様に真っ赤だった。
 Tさんも顔を真っ赤にしていた。鬼のごとく…
「あー!もう!帰る!」 そう言って席を立ち、店を出て行き、外から「今日はSの奢りじゃ!」と聞こえた。
 店内の三人は、呆れた表情で顔を見合わせた。
「お代は、Tさんの溜まってるツケに乗せとくからいいよ」と、ママがウインクをした。
「じゃ、S君のファーストキス祝いに乾杯しよう」とママが取って置きのスコッチウイスキーを開けてくれて、終電間際まで飲んだ。

 翌日、どんな仕打ちをされるかとビクビクしていたが、Tさんは無断欠勤だった。
 家に帰ってからやけ酒でも呷ったのだろう。 所長が舌打ちしながらシフトを組み直していた。
「今度やったらクビにしてやる! S君もあんなやつとは付き合いやめた方がええで!」 と、とばっちりをくらった。
 次の日、Tさんが出勤してきた。がっつりシカトされた。
 それ以後、Tさんとはプライベートな付き合いは無くなり、スナックに行くことも無くなった。
 K美ちゃんに会えないのは正直寂しかった。一人で行こうとも考えたが、Tさんに鉢合わせしそうなので実行出来なかった。

 梅雨の終わり頃、台風が接近しているということで、午後4時に仕事が切り上げられた。
 すでに土砂降りの雨の中、踏み切りの向こうに荷物で満杯の買い物袋を下げているK美ちゃんがいた。
 ほぼ同時に気付いて、僕は大きく手を振ったが、傘と荷物に手が塞がっているK美ちゃんは小さくピョンピョン跳ねていた。
 踏み切りが上がり、僕は駆け足でK美ちゃんの元へ行き、彼女のレジ袋を持った。
「ありがとうございます♪久しぶりですね!」
「買い物?」
「はい♪店で使う食材とか」
「え!? こんな日に店開けるの!?」
「私のアパート、店に近いし、ママは休むけど開けてもいいよって言われたから」
「一人で切り盛りってこと?」
「そんなにお客さん来ないだろうし、うちの母もスナックやっててよく手伝いしてたので勝手知ったるなんとやらって感じです。あ、Sさん、来ます?」
「え?うん!行く行く!!」
 満面の笑顔で返事をした。
 K美ちゃんは、僕が買い物袋を持った事で空いた左手を僕の右腕に回し究極の笑顔を返してくれた。
 店を開けて一時間経ったが、誰も来なかった。
 この通りで店が開いているのはここだけだった。常連客もまさかやっているとは思っていないのだろう。
「ごめんなさい…」
 唐突にK美ちゃんがあやまってきた。
「なにが?」
「いえ、あの、ファーストキス……勝手に奪ってしまって……」
 二人して一瞬で紅潮した。
「いやいや、ありがとうだよ! ホントに! 大人の階段一つ昇らせてくれて!」
「ほんとに? なら、あれですけど、ごめんなさい……」
 再度謝りながら、水割りのおかわりをくれた。
「てか、私もファーストキスだったんですけどね♪」
 水割りが気管に入って激しくむせた。
「そうだったの!? ごめん! ホントにごめん!」
 頭上で手を合わせて何度も謝罪した。
「いえいえ、私もありがとうですよ♪ 大人の階段一つ昇りましたよー!」
 それからお互いちょっとギクシャクした会話をしながら水割りをちびちびやった。
 外から激しい雨音と、風に飛ばされた何かがカラカラと転がる様な音も聞こえた。
「やっぱり来ないですね」
「そうだね」
 開く気配のない扉を眺める。
「Sさんが昇るもう一つの大人の階段、ありますよね?」
 再びむせた。
「あー、うん、まあ、あの階段ね……」
「私もありますから、あと一段……」
 全身の毛穴がブワッと開くような感覚がした。
「一緒に、昇ります?」
 酸欠の金魚みたいに口がパクパクするばかりで声が出なかった。
 呼吸を整え、ようやく返事を返せそうになった瞬間 「でも、やっぱりSさんとはやめときます……」 K美ちゃんが目を伏せながら呟いた。
「あー……、まあ、僕には勿体ないよー! K美ちゃんはー! アハハ…ハハ…」
 自分の中から激しい雨音が聞こえた。
「あ、誤解しないで下さい! 違うんです! Sさんがどうとかじゃなくて、私の方に事情があるんです!」
 K美ちゃんが慌ててそう言った。
「事情?」
「はい……」
 K美ちゃんがまた扉をしばらく見つめてから、僕に向き直り、真剣な眼差しを向けた。
「聞きます?」
 僕は少し間をもってから、ゆっくり頷いた。

  翌朝は台風一過の鮮やかな青空だった。そして暑かった。
 昨晩、K美ちゃんの話が終わった直後にカウベルが鳴り、三人のずぶ濡れ中年サラリーマンが入店してきて、K美ちゃんがタオルを用意したり、注文聞いたりと忙しくし始めたので、僕は帰ることにした。
 見送りに外まで出てきてくれたK美ちゃんがキョロキョロ辺りを見回すと、またいきなりキスをしてきた。
「セカンドキスって言葉はあるんですかね♪」 と、K美ちゃんが笑顔で聞いてきたのだが、僕は上手い返しも出来ないまま「ま、また来るよ」と引き攣った笑顔で手を振りながら家路についた。
 なんかもっと気の利いたこと言えたんじゃないかと、昨日の自分に反省を促していると「おはようございまーす」と大きな声で挨拶しながらTさんが出勤してきた。
 次に無断欠勤したらクビという脅しが効いているのか、ここしばらくは休まず来ていた。
 が、おはようございまーすなんて挨拶をするのは初めて見た。
 その日、Tさんは終始機嫌が良さそうだった。
 僕はというと、昨日のK美ちゃんの話がずっと気にかかっていた。
 僕を傷付けないための作り話だったんじゃないか……初めての相手として、やっぱり僕じゃダメだと思ったんじゃないのかな……でも、キスはしてくれたよなあ……キスとそれは、まったく意味の違うものなのかな……そんな事を一日中頭の中で自問自答していた。
 定時になり、Tさんはウキウキした様子で「お疲れ様ー」とそそくさと帰っていった。

 翌朝、とうとうTさんがやらかした。
 所長が電話を掛けたが留守電だったらしく 「もしもーし! 約束通りクビだ! 以上!」 そう言って乱暴に受話器を置いた。
 それから五日間、Tさんから何の音沙汰もなかった。
 諸々手続きがあるからと、所長が何度も電話するのだが、ずっと留守電だった。
「S君ちょっと」
 所長に呼ばれた。
「Tがよく通ってたスナック知ってる?」
「あ、はい知ってます」
「すまんけど帰りに覗いてきてくれへんか? ひょっとしたら居るかもしらんし、居らんでも店の人からなんか聞けるかもしらんし」
「わかりました」 と、感情を抑えて言ったが、内心はK美ちゃんに会えるとワクワクしていた。
 いや、そんな回りくどい事をするよりTさんの家を訪問すればいいじゃないですかと思ったが、みすみすそんな提案はしなかった。
 店の扉の前に立ち、ノブに手を掛けた。 Tさんが居たら気まずいなと思いながらカウベルが鳴らないようにゆっくり扉を開けたつもりだったが、しっかりカランと鳴り響いた。
 カウンターの中にママが居た。客は居なさそうだった。
「S君!?」
「ども……」
 頭を搔きながらヒョコヒョコと店内に入った。
「久しぶりね~」
 そう言いながら、おしぼりとナッツを出すママに「そうっすね」と答えつつ僕は店の奥にK美ちゃんを探した。
「K美探してる?」
「あ、いえ、まあ……」
「辞めちゃったんよ」
「へ?」
「辞めちゃった。K美」
「うそ……」
「ほんま」
 何も注文していないのにママがビールを注いだ。そしてカウンターの下から『本日貸し切り』というプレートを出してきて、扉の表に掛けに行った。
 僕はコップの底から列をなして上ってゆく気泡を見つめていた。
 帰ってきたママがカウンターの中に丸いすを持ち込んで座った。
「あんたら付き合ってたん?」
 いきなりの問い掛けに焦りながら 「いやあ、まだそこまでではなかったかと……」
「あんたら、やったん?」
「やっ…たん…?」
 顔が熱くなった。
「あー、いえ、やって……いや、しておりませんです」
 ママがタバコに火を付けた。
「そやろなあ~、それやったらあんな感じにならんもんなあ~」
 ため息のように天井に向けて煙をはいた。
「なんか元気なかったのよね~。前日体調不良で休んでたこともあったからかもやけど……」
 ママがまた天井に向けて煙をはいた。
「あの子、S君のこと好きやったんやで。まあ、何となくわかってたやろうけど」
 全身が熱くなった。
「だから、あの子を女にしたんはS君かもと思てたんやけど……」
「女に、した?」
「こちとら半世紀女しとるんやからわかるんよ。あの日、あの子は女になっとった……」
 全身から急激に体温が奪われていく。 ママが僕の顔を見て驚いた顔をした。
 血の気が引いて真っ青だったらしく、強い酒をショットグラスに注いで、一気に呷らせた。
 カーッと身体に熱が戻ってきて少し落ち着いた。
「あの子は、毎日S君来るの待ってたんよ。でも来るのはTばっかりで、まあ、TのせいでS君が来れんのもわかってたけどね……」
 思い出した。 今日、店に来たのはTさんのことを聞くためだった。
「あの、Tさん最近店来てます?」
「いや、珍しくここしばらく来てないよ。それまでは、ほんまよう来て、一緒に飯行ことか言うてあの子を口説きまくってたんや。どっかであの子辞めた事聞きよったんかなあ」
「K美ちゃんは、いつ辞めちゃったんですか?」
「二日前やったかな? 急に辞めるのはご迷惑なのは承知してますが、どうしても故郷に帰らないといけない事情がって……」
「親御さんになんかあったんですかね?」
「私もそう言う風に聞いたら、ええまあ……みたいな感じやったねえ」
 僕はあの台風の日のK美ちゃんの話を思い出していた。
「辞める三日前ぐらいやったかな……土曜日やったな確か……」
「何がです?」
「あの子が女になったって思ったんは」
「前日、金曜日ってTさん来たんですか?」
「いや、来んかったよ」
「相手、Tさんや思てんの? それはないよ~ほんまに嫌ってたもん」
「さっき、K美ちゃんが休んだ言うてましたよね?」
「金曜やったよ、休んだん。週末に私一人で忙しかってん!」
 心臓が痛くなってきた。
「たぶんその時ぐらいに親御さんの事情とか聞いたんちゃうかなあ~それで心労とかあったんちゃうかなあ」
 そうであって欲しかった。
 台風の翌日の金曜日、Tさんは機嫌が良かった。そしてK美ちゃんは休み……僕は不安が拭い切れなかった。

 翌日、スナックで得た情報を所長に報告した。
「そうかあ、あいつ死んどんちゃうか~?」 と、所長は冗談ぽく言ったが、僕は落ち着かなかった。
 あの日のK美ちゃんの話が頭をぐるぐる回る。

――私の母方の女は代々、初めての男がどういう訳か翌日から行方知れずになるんです――
――そして必ず無惨な遺体でみつかるんです――
――祖母が一度霊媒師さんだかに相談したらしくて――
――どうやら先祖にあたる女性が他人の夫を寝取って、正妻と乳飲み子を追い出したと――
――しばらくして山中で見つかった母子の遺体は獣に食われた無惨な姿だったそうで――
――その女性が祟っていて、あんたら一族は末代までその祟りから逃れる事は出来ないし、その霊媒師も払えないって――
――これもまたどういう訳か、安全日だろうが避妊しようが、必ず初めての男で孕み、必ず女の子が産まれるのも祟りのせいだと言うことで――
――その子を堕ろしたりすると、次に関わりを持つ男性に祟りが降りかかってしまうので、産むしかなく――
――私もそのように産まれた子なんです――

あの時のK美ちゃんは、憂いを含んだ真面目な表情で語った。冗談には思えなかった。
「所長ーっ!!」
  慌てた様子で主任が事務所に入ってきた。
「けっ警察が来た! Tの死体が自宅近くの空き地の草むらで見つかったって!」
 事務所に居た全員が同時に「ええっ!?」と叫んだ。
 所長が飛び出して行き、主任が後を追った。
 しばらくして、主任だけがが帰ってきて 「所長は警察と一緒に行った。T、身寄りがおらんから、所長が遺体の確認するんやて」
 その日は、みんな仕事に身が入らず、こんな状態で作業するとミスをおこしかねないということで休業となった。
 が、誰も帰るものはおらず、事務所で所長の帰りを待っていた。

 夕刻、所長が戻ってきた。げっそりとやつれていた。
「ひどいもんやった……パッと見ただけやったらTか誰かわからへんかった……」
  所長がハンカチで口を押さえる。
「あいつ、胸の所にちっちゃい刺青あったやろ? それがかろうじて確認できて、間違いないですって言うて……死後一週間程らしいけど、こんなムシムシした時期やからそれはもう……」
 詳しい死因はこれから調べるそうだという話を聞いてから、皆、無口なまま帰って行った。
 僕は、スナックに向かった。
 店の前で水を撒いていたママが僕を見つけて「今日も貸し切りやね…」と言って暗い笑顔を見せた。
 カウンターの客席側に二人並んで座って、並々注いだウイスキーのロックのグラスを揺らしていた。
「Tさんちに、うちのマッチがあったみたいで連絡があったんよ」
「なんか聞かれました?」
「たぶん事件性はないと思いますが、ここ最近Tさんに変わったことありませんでしたかみたいなこと聞かれたけど、別にいつもと変わりませんでしたよて言うた」
「K美ちゃんのこと……は……?」
「言わんかった。このタイミングで辞めた子がおる言うたらちょっとあれやろ?」
「まあ……」
「いくらあの子がTさんを嫌いでも、さすがに殺すまではいかんやろ! そう思うやろ?」
「ええ、それはあり得ないですよ」
 そう言って小さな氷の欠片ごとウイスキーを一口流し込んだ。
 その夜は二人でボトルを一本開けても全然酔わなかったが、朝にはきっちり二日酔いが来た。

 その後、Tさんの死因は心筋梗塞が原因とされ事件性は否定された。
  Tさんが酔った帰りに用でも足そうと草むらに入り込んだ時に運悪く病が襲ったのだろうという見解だった。
 身寄りがないとのことで、所長がずいぶん大変だったようだが、時が経つうちに事務所も平常運転に戻っていった。
 Tさんの死から半年程経った頃、事務所に僕宛の封書が届いた。
 差出人はS木K夫となっていた。
 知らない人物だった。住所は書いていなかった。
 家に帰って、封を開けた。
『拝啓 お久し振りですK美です。 突然、店を辞めて居なくなってごめんなさい。 そして、突然の手紙ごめんなさい。 でも、Sさんにはどうしても伝えたかったのです。 私、怖かったんです。 Tさんがどうなったか知ることが。 だから情報が私の耳に入る前に辞めて帰ってしまったんです。 ママに聞いてるかも知れませんが、台風の日の翌日、私は店を休みました。 そしてその日、私はTさんと一緒に食事に行ったのです』
 僕の心がきゅっと締め付けられた。この先を読みたくなかったが、目が勝手に文字を追ってゆく。
『行きたくて行ったんじゃ無いんです。しつこく誘われて、一度だけ付き合ってくれたらもう誘わないからと言われて… 私を酔わせて乱暴なことをされるのではと不安でしたが、その不安の後ろにチラチラと見え隠れしている思いがありました。 Tさんが私を抱いたら、この人から逃れられるかもと…』
 僕の部屋が暑いからなのか、冷や汗なのかわからない汗がこめかみを伝う。
『Tさん…、いえもう、さん付けはやめます。Tは思った通りお酒をガンガン勧めて来ました。でも私、お酒には強いので全然酔いませんでした。楽しくないお酒なのでなおさらです。 一度お手洗いに立って、戻ろうとする時に私見たんです。Tが私のグラスに何かを入れてるのを。 駆け寄ってビンタでも食らわせようかと思ったんです。 が、やめました。 私に見られたことに気付きもせず、Tは笑顔で「おかえり~」と迎えました。 そのいやらしい笑顔を見て、私の中にあった罪悪感が少し薄らいだんです。 あんたが招いた事だからね、あんたの責任だからね、私が仕掛けた訳じゃないからねと。 私は薬入りのカクテルを飲み干しました』
 僕の血が煮えたぎりながら全身を巡る。
  T…そうだ、こんなやつにさん付けはいらない。むしろ頭にクソを付けていいぐらいだ。クソT!
『目が覚めるとカーテンの隙間から月が見えました。 一通り見回して、そういうホテルだとわかりました。時間は午前三時過ぎでした。横にはTが寝ていました。 静かにベッドを出て服を来ていると、後ろから「おはよう~」とTから声を掛けられました。 私が酔いつぶれたのでここに来たと、覚えてないかも知れないけど、私から誘ってきたので関係を持ったのだとTは言いました。 「そうですか…ご迷惑をお掛けしました」 と、私は言い、ホテルを出て、それぞれタクシーで帰途に着きました』
 僕はTの墓に唾を吐きかけてやりたい気持ちに駆られた。
『その夜はスナックに出勤しました。Tは来ませんでした。あんなやつでも流石に今日は来づらいのだろうと思いました。 次の日も来ませんでした。私を抱いて、もう満足したのかも知れないと思いました。 次の日も来ませんでした。Tが三日間来なかった事はここ最近ありませんでした。 急に怖くなりました。 そしてその日、ママに辞めることを伝えました。 アパートの解約手続きをする時間も惜しかったので、ママに代行してくれるように、事足りるだけのお金を渡したのですが、退職金代わりにすべてやっといてあげると、お金を受け取って貰えませんでした。 親の体調の為だと嘘の理由を伝えたことに申し訳ない気持ちでいっぱいでした』
 僕がママの店に行って、お酒をたくさん飲んであげよう。
『実家に帰って、母にすべてを伝えました。 なにも言わずに抱き締めてくれて、私は幼い子供のように泣きました。 そして今は母のお店を手伝って過ごしています。 今現在、Tがどうなったのか私は知りません。 知りたくもありませんが、気にはなっています。 そして、恐らくどうなったのかはわかります。 私は、今、妊娠しています。 この間のエコー検査で、ほぼ確実に女の子と言われました』
 僕の身体が痺れる。手が震える。手紙がカサカサと小刻みに音を立てる。
『もし、妊娠していなかったら、私はママの店に戻ろうと思っていました。妊娠していないということは、祟りが解けたともいえるからです。 Tに初めてを奪われたのは悔しいけれど、それよりもSさんに会えることの方が嬉しいから!サードキスもしないとだし!Sさんの大人の階段を一段昇らせてあげないとだし!そう思っていました。 が、人生そう上手くは行きませんね… そして、やはり我が家系は末代まで祟り続けられる様です…』
 Tの子だろうが、僕はK美ちゃんごと受け止めて幸せにしてあげられるんじゃないか?こんなに僕を想ってくれているのだから!
『Sさん、優しいから「僕が面倒見てあげる!」とか言ってくれそうですが、大丈夫です!母が一緒に子育てを手伝ってくれるので不安はあまりありません。 Sさんには会いたかったけれど、未練たらたらなんですけれど、もう会わないでおきます。故郷で静かに暮らします。 素敵な女性を見つけて、大人の階段を昇って下さい! ちょっと悔しいですけどね… Sさんにすべての告白が出来て、もう思い残すことはありません。 短い間でしたが、大好きでした! 楽しい思い出をありがとうございました! Sさんが末永く幸せでありますように。 敬具 S藤K美』

 一通り読みきったあと、また最初から読み直し、結局丸暗記するぐらい読み返した。
 僕という存在もTの事を思い出してしまう切っ掛けとなってしまうのだろう。
 だから、もう会わないほうがいいのだろう。
 産まれてくる子供がTに似ていないこと、祟りがK美ちゃんの代で終わる事を祈りながら、そのまま飯も食わず、枕に突っ伏した状態で泣いているうちに気を失う様に寝た。
 朝起きたら、枕がおしぼりぐらい濡れていた。 腫れぼったい目で、もう一度だけ手紙を読み返し、庭で燃やした。
 事務所に今日は休む旨を伝えて、夕方までゴロゴロした後、枕に奪われた水分を取り戻すため、ママのスナックに出向いた。

朗読: 十五夜企画

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