「引越しをする時は、可能な限り実際の物件へ足を運びなさい。少しでも嫌な気分になったら絶対に住んではいけない」
大変に勘の鋭い親戚が、かつて私の母にこう言って聞かせた。
仕事柄どうしても引越しの多かった我が家を心配しての事だったのだろう。しかし当時まだ幼かった私は、転居とは色々と難儀なものなのだな、程度に聞き流していたように思う。
すっかり親戚の忠告など忘れた頃、友人が大学への進学を機に一人暮らしを始めたというので、招かれるまま私は彼女の家を訪ねた。
何度か電車を乗り継いで到着した街は、小さいながらも立地に恵まれて住みやすそうな場所だった。
商店街が軒を連ね、駅前には大型のショッピングモールが聳え立つ。それでいて喧騒も少ない穏やかな雰囲気が漂っていた。
「いい街だね」という私に友人は「そうでしょ?」と得意げな顔を見せる。
連れ立って歩いた商店街の一角で遅めの昼食を調達し、彼女のマンションへ足を運んだ。
駅前の通り沿いに立っているマンションはシンプルな造りでこじんまりとした佇まいだった。
単身者向けの部屋ばかりで留守が多いと見え、社会人が帰宅するには少々早い時間帯のマンションは静かなものである。
年季を窺わせる外壁はくすんだ色をしており、とても若い女の子が住んでいるとは想像できない風貌をしていた。それに、暗い。
「ねぇ。ここ、何だか暗くない?」
エントランスに踏み入って集合ポストの前を通りながら友人に尋ねる。彼女は首を傾げた。
「うーん。日当たりの問題かな。ほら、日も落ちてきてるし」
確かに外は快晴とはいえ、夕方が近づく頃合いになり日差しの勢いは失われつつある。けれども視覚的な暗さ以外の何かが重く立ち込めているように感じられた。
正直に口に出してしまえば、友人は機嫌を損ねるだろうか。思案した結果、私は口を噤むことにした。
「実はね、上の階に同じ大学の先輩が住んでるの! たまに遊びに来てくれるんだよ!」
部屋に上がらせてもらい、昼食も終えてゆったりとお茶をしながら雑談していると、彼女が人差し指で上のフロアを示した。つられて見上げた私の視界に天井が映る。
「いいなぁ。勉強教えてもらえるし、近くに先輩いると心強いよね」
「たまに手作り料理もお裾分けしてくれるから最高」
随分恵まれた環境じゃない、と羨む私に友人は笑顔で頷いた。
初めての一人暮らしで当然不安はあったものの、先輩のお蔭でどうやら快適に過ごせているらしい。
その様子に安心した私はすっかり先程の暗い気配のことなど頭の隅に追いやっていた。
きっと彼女の言う通り、日当たりが悪かっただけだと納得して。
日もすっかり沈んで夕飯をご馳走になった後、私は急激な睡魔に襲われた。
時刻は夜の七時過ぎ。夜更かしが身体に染みついた人間が眠くなるような時間ではない。
しかし会話もままならなくなった私を気遣い、友人が布団を用意してくれた。
「長い電車移動で疲れたんだよ。気にしないで」
私はもう少し起きてるね。そう言ってテレビを観る彼女に一言謝り、大人しく布団に潜り込む。
既に意識を保つのも難しいくらいだった私は呆気なく眠りに引き込まれた。
しかし、ものの三十分足らずで友人に叩き起こされ飛び起きる羽目になる。
「ねぇ、どうしたの?」
どうした、はむしろ私の台詞ではないだろうか。何やら焦った様子でこちらを問い質す友人へ尋ね返した。
「魘されてすごく暴れてたよ? 悪い夢でも見た?」
心配してもらって有り難いのだけれども、肝心の夢の記憶が欠片もない。となれば、単に私の寝相が相当に悪かったという事だ。
我ながら人様のお宅でとんだ失態を晒したものである。思わず布団の上で居住まいを正して頭を下げた。
「寝相悪くてごめん。いやぁ、自分じゃ寝てる間の事って分からないけど、私そんなに暴れてた? 恥ずかしいなぁ。せっかく先輩も遊びに来てくれてたのに迷惑掛けちゃったね」
矢継ぎ早に喋る私の向かいに座る友人が怪訝な顔をした。
「……先輩? 今日は一度も来てないけど」
今度は私が訝しむ番だった。
「ウソだぁ! 私が起こされた時、そこに女の人いたじゃん」
自分のために敷かれた布団の裾を指差して続ける。先程まで私が呑気に寝ながら足を向けていた場所だ。
ちらりと視線を向けた友人は見る間に強張った表情を浮かべたが、私は構わず女性の特徴を羅列した。
「セミロングの黒髪でさ、白いニットにチェック柄の黒っぽいスカート穿いた人。正座して俯いてたから顔は見えなかったけど、あの女の人が先輩でしょ?」
友人が首を横に振る。
「先輩、セミロングじゃない。あのさ、さっき寝相がどうのって言ってたけど、本当に覚えてないの?」
彼女曰く、寝ているはずの私が何やら暴れ出したので驚いて様子を見ていたそうだ。
まさに私の指差す所へ向かって『何か』を追い払うような、拒むような仕草を繰り返していたらしい。それはもう、尋常じゃない程に。
「近寄るな! って感じでね、見てたら怖くなってきちゃって。だから起こした」
私は何も言えなかった。
考えてみれば本当に先輩が来ていたとして、いつの間に帰ったのだろう。ドアの音もさせずに、後輩へ一言の断りもなく出て行くなんて不自然の極みだ。
友人と二人して微妙な沈黙をやり過ごした後、今日は寝てしまおうという事になった。
「明日からどうしよう、怖い怖い」と頭を抱える彼女だったが、大学を卒業し部屋を引き払うまで結局あの女性を見る機会はなかったそうだ。
事故物件という訳でもないのだから当然かも知れない。では偶然泊まりに行っただけの私の前に、何故現れたのか。
「それこそ場所との相性よ。同じ物件でも影響の有無は人それぞれだもの。実際に自分の目で部屋を見なさいって勧める理由、分かった?」と後日、親戚は朗らかに笑って言った。
「少しでも嫌な気分になったら絶対に住んではいけない」
今でも私はこの言葉を念頭に置いて、転居の際には細心の注意を払うようにしている。
内部見学の度に神経を尖らせる面倒さには閉口するが、我が身の安全第一だ。次も運良く助かるとは限らないのだから致し方ないだろう。
皆さんもどうか、転居をされる際は十分にお気をつけて。
寝ている足元で見知らぬ誰かがあなたの様子を窺っている、なんて事が起こりませんように。