もう1人の母

 まだ田舎にいる頃、私の母にはドッペルゲンガーがいました。
 そのよく似た人が目撃されるようになったのは、私がまだ保育園の頃でしたから、もうかれこれ30年ほど前のことです。
 しょっちゅう、「○○デパートにいた」「車に乗って○○方面に向かっていた」「声をかけたけど無視された」といった内容の目撃情報が入ってきており、最初の頃こそ「よく似た人がいるんだねぇ。生き別れた双子の妹だったりして〜」など、ふざける余裕すらあったようです。
 ですが、ある時妹から「おととい、○○レストランにいた?」と聞かれ、その日は1日仕事をしていたことを伝えると、妹は「やっぱり……」とひとりごちた後、話を続けました。

 友達とランチしようと○○レストランに入って席に案内されると、斜め前の席の4人グループの中に、お姉ちゃん(母)がいた。
 声をかけようかと思ったんだけど、何かが引っかかって、声をかけちゃいけない気がして、声をかけなかった。
 顔も体格も雰囲気も服装も、話し声や話し方、笑い方ですら全く同じで、私が誕生日にあげたイヤリングも付けてて、何から何までそっくりそのままだったのに。
 でも何かがおかしいと確信があった。

 お姉ちゃん、なんかこれ気持ち悪いよ。 実の妹からそんなことを言われ、流石の母もいよいよもって気持ちが悪くなったと言います。
 ドッペルゲンガーを見かけたと言う人たちから特徴を聞いて回ると、どうやらその母によく似た女は「赤いマーチ」に乗っている……という共通点があったそうです。
 そんなに目立つ車に乗っているのであれば、見つけるのは容易だろうと思われましたが、何故か目撃談は相次ぐのに、母自身が遭遇することはありませんでした。
 そうこうしている間にも年月は過ぎ去り、家族で同じ県の別の市に引っ越しました。
 高校生になっていた私は、ある夏の日の夕方、下校途中にコンビニに寄りました。
 広い駐車場の片隅に赤いマーチが停まっており、散々母から聞かされていたドッペルゲンガーの話をふと思い出しました。
 まさかね〜と思いながらコンビニのドアを開けて目線を上げ、驚きました。
 レジで、いつも買う銘柄のコーヒーを買っている母がいたのです。
 お母さん、と思わず声を出してしまいそうになりましたが、何かがそれを踏み留まらせました。
 本当に、今考えてもどうしてあそこで声をかけなかったのかわかりません。
 会計が終わった母のような人は、私に見向きもせずに店から出て行きました。
 やっぱりお母さんじゃなかったんだ……と思った私は、買い物もせずに走って家に帰ると、台所で夕飯の支度をする母に、先程あったことを全て話しました。
 母はとても驚き、同時に身震いしたようでした。
 同じ県……と言っても、県の端から端に移動しているので、かなりの距離があります。
「追いかけてきてる……?」
 母のこの一言に、私の背中に冷たいものが走りました。

 その後も何度か、私や父は赤いマーチが色んな店の駐車場に停まっていたり、国道を走行している姿を見かけました。
 そこからまた程なくして、今度は父の仕事の都合で県外……都心部に引っ越すことに。
 母は、冗談めかして「またついて来たりしてね」と言っていましたが、私は笑えませんでした。
 引越し後数年は、何事もなく過ごしました。
 その間に私も成人して家を出て、今では家庭を持ち、東京で暮らしています。

 そして、つい最近のことです。
 仕事を終えてスマホを確認すると、母から2回電話がかかってきていました。
 折り返してみると、すぐに母が興奮気味で電話口に出ます。
「例のマーチの女がいた」
 私は最初、なんのことだろう……とすぐには思い出せませんでしたが、「ほら、ドッペルゲンガーの」という母の言葉でハッとしました。
 故郷とは500km以上離れた土地です。
 しかも母の話によると、マーチは古い型のもので、最初に目撃談が上がっていたころから変わらないということでした。
 赤いマーチ、それも古い型の。
 その車が大手家具店の駐車場に停まっていて、「まさか……」と脳裏をよぎったそうです。
 その場でしばらくマーチの持ち主が現れるのを待っていたそうですが、1時間ほど経っても現れず、急に怖くなった母はすぐにその場を後にしたと言うことでした。
「本人を見たわけじゃないし、確証はないんだけどね……」と続ける母の声は、若干震えていました。
 私はともかく、「たまたま昔の赤いマーチを乗ってる物好きの人がいただけかもよ。気にしすぎないほうがいいよ」となだめ、その後は近況報告などをして電話を切りました。

 それからは、しばしば母から赤いマーチを目撃したという報告があるものの、今のところドッペルゲンガーそのものを見てはいないそうです。
 このまま何事もなければいいな……と願うばかりです。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ


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