雨模様の繁華街。信号を待つ傘の群れ。
とある男性は群れの中で、それを見たのだといいます。
その日、雨は朝から降り続け、昼間の繁華街をじっとりと包んでいました。
悪天候の平日でしたが人出は多く、雑踏や車が雨水を轢く音を聞きながら 仕事の都合で道を行く彼は傘の下、うんざり顔だったそうです。
今日は何かのイベントだったろうかと、道行く人々の恰好を眺め襟元を整えていると、湿り始めたスラックスの裾に気が付き、少し歩を早めました。
そうして歩きなれた道を辿り、そろそろ信号だなと持ち上げた傘の先、点滅する青信号に横断を諦めた人々が、歩道に溜まりだしているのが見えたそうです。
あの信号、赤になると長いんだよなと思いながら、ますますうんざりと傘の群れに加わり、何の気なしに前を眺めていたそうです。
すると、妙なものが目に留まりました。
前方で信号を待つ人の乳白色の傘に、黒い影が浮かんだり消えたりしているのです。
その様子に、背の高い荷物でも背負っているのかと考えたそうですが、傘の隙間から覗く後姿には、それらしきものは見当たらず、肩に乗せた子供が暴れている、という雰囲気でもなかったそうです。
なんだろうかと、まじまじと見つめているうち、それは、すぐに見えなくなったといいます。
気のせいかと視線を外し、辺りを見渡す彼。
すると今度は別の傘、乳白色の向こうに同じような影が揺れていたそうです。
一体何がそう見えているのかと、観察しようと思ったそうですが、またしても影はすぐに見えなくなりました。
訝しんだ彼は、傘の群れをぐるりと見渡します。
すると今度は、透明なビニール傘の向こうにそれを見つけ 思わず目を見開いてしまったそうです。
“骨ばった脚の、頭がないタコ” 、あるいは、 “指の関節が滅茶苦茶な、巨大な手首” のようだったといいます。
墨色をしたそれは、雨粒の流れ落ちるビニールの中、信号待ちの傘の内側にへばり付き、のたうち回っていたのだそうです。
思わず後ずさろうとしましたが、いつの間にか後ろにも傘の群れは伸びており 、身動きが取れないことに気が付きました。
そして今度は、すぐ斜め前の傘の布地が不意に波打ったそうです。
向こうから照らす光もない黒い布ごしには、その姿は見えませんでしたが、奇妙に波打つその傘の下では、先ほどの不気味な何かが 布を押し上げ蠢いてるのだろうと、否応にも想像してしまったといいます。
ボコボコと波打つ布地とは対照的に、声も上げずじっとしている傘の持ち主。
まさか気づいていないのかと思った彼。
しかし傾きかけた傘が、強い力で元の位置に戻る様子を目にしました。
耐えているのだ、と思ったそうです。
少なくとも黒い傘の男性は、異変に気が付いているものの、何をすることもできず、声も上げられず、ただ傘の柄を強く握りしめ、じっと耐えているのだと、そう感じたのだそうです。
言い知れぬ寒気に思わず目を落とす足元。ずぶ濡れのスラックスの裾。
前方から後方へ、傘の下を移動するその様子に、来るな来るなと祈っていると 湿った空気が、うなじを撫でるのを感じたそうです。
そして。
ギシ……ギシ……
骨ばった何かが窮屈そうにビニールを押す、耳障りな音が聞こえだしました。
ギシ……ギシ……
不思議と重さは感じなかったといいます。
しかし、うなじで感じる生ぬるい空気の流れと 傘の柄を通して伝わる、骨ばった関節がビニールを押す感覚に、その何かが身を悶える姿が、ありありと目に浮かんだそうです。
怖ろしさからすくみ上がったのか、はたまた一種の金縛りであったのか、全身がこわばり、声も出せなかったという彼。
辛うじて自由のきく手で柄をきつく握りしめると、先ほどの男性同様 無数の傘の群れの中、ただ一人耐えることしかできなかったといいます。
早く去れ……早く去ってくれ……。
力を込めた手に食い込む、傘の柄の金具を感じながら うつ向いて、ただただ念じ続ける彼。
ギシ……ギシ……
ビニールの擦れる嫌な音が、やけにはっきりと響く傘の中、周りの様子に耳をそばだててみたそうです。
しかし、くぐもった街の喧騒は、彼を気に留める様子もなかったといいます。
もしかしたら、多くの人には見えていないのかもしれないと、いよいよ何もできることのない彼は、傘の柄を握り直すと、前の人達に、何かが起きた様子がないことだけを心頼りに、ただただ、息をひそめていたそうです。
すると、不意に傘の中が静かになりました。
不快な音も不快な空気の流れも、傘の柄から伝わる感覚も 何の前触れもなく消えてしまったのだそうです。
ほっと胸を撫でおろす彼。
一呼吸おき、俯いた視線を前に戻そうとすると。 突然、今までにない力で傘が傾きました。
慌てて力を込め直した手に、柄の金属が食い込みましたが、千切れんばかりにギギギと鳴るビニールに、痛みを感じるのも忘れパニックになった彼。
取り落としそうになる傘を両腕で掴んだとき、体の自由がきくことに気がつきました。
思わず、あっと声を上げると、傘の中は再び静かになり、代わりに前方の歩行者信号が、聞きなれた電子音を鳴らし始めました。
騒めきながら動き出す傘の群れ。
呆然としながらも、その流れには逆らえず、背後を振り返ることもできなかった彼には、結局あの得体のしれない何かがその後どうなったのか、分からずじまいだそうです。
件の横断歩道は、馴染みの客先へ行くためによく使う道だそうで、雨の日には避けるようにしているものの、致し方なく通ることもあるといいます。
しかし未だに、あの日のようなものを目にすることはないそうです。
あそこに居ついているのでなければ、一体あれは今どこにいるのだろうかと、降り出しそうな曇天を眺めてボヤく不安そうな彼の顔を、雨の季節になると、よく思い出すのです。