母の心臓

 私の母は、心臓が悪く通院しており、常時薬を飲んでいる。
 症状としては、激しい動悸、息切れ、度重なるめまいなとである。
 先日、帰省した際、母が私に、こんな話をしてくれた。

 母は、英語が好きで、英会話スクールの上級者コースに通う一方で、麻雀教室にも通っていた。
 麻雀と聞くと、悪い遊びのような印象をお持ちの方もいると思うが、決してそうではない。
 むしろ、頭の中で常に戦略を練らなければいけないので、頭脳戦でもあり、高尚な遊びだと思う。
 母の通う麻雀教室では、毎回、始めにくじ引きが行われて、座席が決まるとのこと。
 その際、やはり相性の問題で、良い人と悪い人がいるのだという。
 その中で一人、とても紳士的な初老の男性がいて、仮にその方をAさんとする。
 Aさんと同じ雀卓になれた時には、とても楽しく麻雀をすることが出来たそうだ。
 言葉遣いや気遣いなど、さりげない優しさに、母も(いい人だな)と思ったという。
 父は他界しているので、母が異性に恋心を抱いたとしても、私は問題ないと思っている。
 そして、週一で麻雀教室に通ううちに、母は、ある時からAさんに会うと、胸が異常に高鳴り落ち着かなくなってしまったそうだ。
(ドクン、ドクン、ドクン) と、心臓がおかしくなり、麻雀にも集中出来ず、負けてばかりだったらしい。
 恋心など、あまり経験の無かった母には、とても難問で、ただ少女のように、押し黙って俯いていたそうだ。
 そしてしまいには、知らないうちにAさんが後ろに来ただけでも、心臓がドクン、ドクンと反応したという。

 ある日、帰りのエレベーターで、母は、Aさんとたまたま二人きりになってしまった。
 心臓は、相変わらずドクン、ドクンと高鳴り、 (Aさんに聞こえちゃう) と思って仕方なく、母は、 「いつも健康的でいいですね」 と話したそうだ。
 すると、 「今のところは大丈夫みたいです。でも、老眼が進んで、眼鏡がないと麻雀も出来ません」 とのこと。
 母も、 「私もです」 と笑いながら会話して、正面玄関まで来た時、それぞれの行き先が真逆で、丁度クロスするようにすれ違ったそうだ。
 その際、母とAさんは、軽く肩がぶつかって、少しよろめいたが、母は、Aさんの真後ろに張り付く黒い影を見たそうだ。
(あっ!) と思って、その影を凝視していると、Aさんが、 「ごめんなさい。遠近感もなくなってきてる」 と笑い出した。
 母も慌てて、 「すみません。また来週ですね」 と言って、その場をあとにした。決して後ろは振り返らなかった。
 黒い影に良くないものを感じて、逃げたのだそうだ。

 翌週の麻雀教室に、Aさんは、来なかった。
 その後、受付の方から、Aさんが、亡くなったと聞かされたそうだ。
 母は、 (Aさんの後ろにいた黒い影は、何だったのだろうか) と考えたが、きっと悪いものだったに違いない、と思ったそうだ。
 続いて、母と相性の悪いBさんという女性の話になった。
 Bさんは、性格も話し方も最悪の方のようで、麻雀教室の誰とでも相性が悪く、嫌われていた。
 同じ雀卓になると、敵対心むき出しで攻撃してくるそうだ。
 態度がいつも荒々しく、言葉も汚いので、 「英語教室だけ行ってればいいじゃん!お嬢様の来るところじゃないよ!」 と言われたりするらしい。
 ある日、母の勝ちが続いて、Bさんと険悪なムードになってしまい、母の心臓が、ドクン、ドクンと大きく高鳴ってきた時、母は、Bさんの背後に立つ黒い影に気が付いた。
 驚きのあまり、 「あっ!」 と声を上げて、手が止まったが、Bさんが、すかさず、 「早くやれ!もたもたするな!」 と怒鳴りちらしたそうだ。
 母は、たまらずスタッフさんに交代をお願いして、帰宅したとのこと。
 Bさんについても、その後すぐに具合が悪くなり、救急車で搬送されたそうだ。

 母はその日から、麻雀教室に行くのをやめた。
 母は、家での日常生活で、心臓の異常を感じたことは無かった。
 しかし、外に出ると、色々と症状が現れるので、通院してお薬を頂いていた。
 母は、 「もしかしたらなんだけど、私の心臓は、あの黒い影に反応しているんじゃないかと思って」 と言う。
 私が、 「黒い影が近くにいると心臓が勝手に反応するの?」 と聞くと、母は、 「そうそう。もしかしたら心臓の病気なんかじゃないのかも」 と言う。
 私が、 「黒い影は何なの?死ぬ時にお迎えの人とか居るのかな」 と言うと、母は、 「居るんだと思うよ」 と言った。
 そして、私が、自宅に戻って数日後、兄から連絡が入った。 なんと、母が倒れて救急車で病院に運ばれたらしい。
 ご近所の大地主の金持ちさんの家で、急に倒れて、その家のご主人が、救急車を呼んでくれたそうだ。
 兄から、 「心臓肥大の状態で、緊急入院になった。命に別状なし。病院に行っても面会は出来ないから、来ないように」 というようなラインがきて、少し安心していた。

 ところが、翌日の昼間、突然の電話。なんと、入院中の母からだった。
 慌てて携帯に出ると、次のような内容だった。
 母の話 「時間ないから。あのね、Hさんの家に呼ばれて、離れの麻雀部屋で、四人で楽しく麻雀やってたの。そしたら、あのっ、この前話したあのっ、黒いのがいっぱい出てきたの。湧いて出てきたのよ。そして、お母さんの方に向かってきたから、怖くて怖くて、あと覚えてない。だからさ、次は私の番なんだよ。お母さんさ、海外旅行も英会話も麻雀教室も、やりたい事全部自由にやらせてもらったから、もう悔いは無いよ。幸せだった。ありがとう。じゃあね」
 そう言って、一方的に電話を切ってしまった。
 自由で明るくて、決断力と行動力の速さはすさまじくて、いつも最善を尽くして、私達のお手本のような人。
 死を前にして、私に最後の状況を補足しておきたかったのだろうか。
 しかし、結論からお話しすると、母は、2週間で退院し、元気に帰宅した。
 そして、 麻雀をしに行った先のHさんが、亡くなられたとのこと。
 母は、Hさんの隣りの席だった。
 黒い影に母の心臓が反応してしまう話は、私と母の秘密事項となった。
 そして、一度、死を覚悟した母は、怖くなくなったのか、再び麻雀教室に通い始めた。
 AさんもBさんも、もういない。 自由に好きな事を楽しんで欲しいと思う。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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