僕はK県Y市の大学に通っていました。
都市部からだいぶ離れたうちの大学はただでさえ静かな環境にあったのですが、特に学舎のすぐに裏は鬱蒼と茂った木で覆われた裏山があり、その裏山が大学を周囲の喧騒から遮っていました。
どこもほとんど開発されつくしたK県なのですが、意外なことに第二次世界大戦からの遺跡が未だにぽつぽつと残されています。
そしてうちの大学の裏山にも例に漏れず、大戦中の防空壕や、日本軍の工場の遺跡が散在していました。
調査する価値があるのかないのか分からないのですが、裏山にあった多くの遺跡は当時の姿のまま放置されていました。
崩落の恐れもあり危険なため無闇に立ち入らないようにと、時折大学の掲示板などでアナウンスされていたのを覚えています。
分別やリスクをわきまえない大学生という生き物にとって、危険、禁止といった言葉は魅力的な招待に等しいものがあります。
結果として、大学の敷地から裏山に入りそれらの遺跡に向かうルートは、幾つかの部活では代々の伝承として語り継がれていました。
そしてとある運動部に所属した僕も、入部して間もない飲み会の席でこの伝承を先輩の口から聞くことになりました。
大学の敷地の一番奥、食堂を超えていった先にある部室棟、その裏側のフェンスに、いにしえの陽キャが達が開けた穴があり、その小さい穴をくぐってけもの道を行くと、10分足らずで遺跡群が現れるということです。
言うまでもなく、僕は早速気の合う仲間のA・Bと共に、夏休み中にその遺跡を探索する計画を立てました。
夜の10時過ぎだというのにアスファルトの熱が冷めないある酷暑の晩、僕は125㏄のスクーターで下宿先から大学へと向かいました。
ただでさえ夏休みである上に夜も遅く、学生や職員の出入りもほとんどない大学は完全に静まり返っており、少数の物好きが研究にいそしんでいるのか、あるいは居酒屋代わりに使っているのか、幾つかの研究室の明かりがぽつぽつと点いているのみです。
本来教員以外は大学構内にバイクで進入することは許されていないのですが、一時的な廃校と化した今の大学ではそれも大した問題ではないようで、入り口で学生証を見せると守衛はすんなり僕を通してくれました。
静まり返った敷地を一番奥まで進み、部室棟前でスクーターのスロットルをふかすと、先に着いていたAとBが「おいさとしスクーターかよw」「やるわw」と笑いながら部室から出てきました。
二人の期待通りのリアクションに上機嫌になった僕は、さっきまで感じていた少しの恐怖もすっかり忘れ、スクーターを停めると意気揚々と裏山の入口へと向かいました。
学舎の背後にある裏山は、大学とその先にある小さな市街地を完全に隔てる形で立っていました。
歩き出して数分と経たないうちに、大学構内の明かりも、逆の市街地の明かりも届かない濃い暗闇が僕たちを覆いました。
僕たちは、持参した懐中電灯で足元を照らしながら、静かにゆっくりとけもの道を進みました。
周りのよく見えない暗闇と少々の恐怖で、わずか数分がそれ以上の長さに感じ出した頃、軍需工場跡の入り口と思われる、木の板が天井部に張られた洞窟がぬっと目の前に現れました。
ぽっかり空いた洞窟の口の奥には、周囲よりさらに濃い闇が溶けており、その暗闇から出る生温かい風が、ゆっくりと僕たちの顔を撫でます。
何故か音を立ててはいけないような気がしていた僕たちは、何も言わずに顔を見合わせ、恐怖を喉の奥に押し込んだ後、Aを先頭にゆっくりと洞窟の入口へと足を進めました。
意外にも綺麗に残っている石の階段を慎重に降りていきます。
ふと、先頭にいたAが「しっ!」と囁きました。それに気圧される様に物音を消すと、暗闇の遥か先から、何かの動く音がかすかに聞こえて来ました。
突如全身に緊張が走り、冷たい汗が皮膚から染み出てくるのを感じます。
寝床を探している野生動物か、あるいは単に小石でも転がっただけか そう思っていた矢先、”それ”は真っ暗な闇からこちらに飛び出してきました。
「わっ」
暗闇から黒が飛び出してきたようでした。
それは人に見えました。フードのついた、真っ黒な服。背丈は…恐らく男性。
暗闇のせいか、フードからわずかに覗く顔も黒く染まっているように見えます。
それは僕たちの肩にぶつかりながら狭い階段を猛然と駆け上がっていき、洞窟の出口から闇の中へ消えました。
驚きと恐怖でしばし沈黙した後、僕たちはようやく我に返りました。
「なに今のやばいやん!! なに、どういうこと!」
パニックになりながら言い合いましたが、分かることは何もありませんでした。
洞窟に何か、いや誰かが潜んでいた。出てきた。
それ以外の情報は何もなく、とはいえ裏山探検どころではなくなってしまった僕たちは大学の敷地に戻りました。
「えちょっと待って」
部室に戻ると、すぐそばに停めていたはずのスクーターが忽然と消えています。
巡回している守衛がどこかに移動させたのかとあたりを探し回っても、どこにもその姿はありませんでした。
守衛室に尋ねても、特に移動などしていないとのことで手掛かりは得られません。
幸い貴重品は身に着けていたので、その日は友人たちと解散し、電車と徒歩で下宿先に帰りました。
床に就いても頭は冴えるばかりでした。
一体あれは何だったのか、人なのか、それとも幽霊とか地縛霊とかそういう類なのか。
その上スクーターまで無くなるし……。
警察に盗難届を出すか? ただ警察に届けたら大学にバイク進入したことがバレるか……?
そんなことを考えているうちに眠らないまま朝を迎えました。
寝不足だったため翌日の講義を飛ばし日中に熟睡していた僕は、インターホンの音で起こされました。
スマホを確認すると夕方の5時。
来客の予定もないので、勧誘とか新聞か何かだろうと無視していたのですが、インターホンは続き、すぐにドアをドンドン叩く音まで加わりました。
ドアを開けた僕のイライラはすぐに消し飛びました。警察官が二人。
「今日の午前中のことで尋ねたいことがあるから署まで同行するように」と言います。
有無を言わさずパトカーに乗せられた僕は、署に着くと無機質な部屋に通されました。
強面の別の刑事が待機しており、僕が席に着くなり「今日の午前11時ごろ、あなたのバイクでひったくり未遂の当て逃げがあった。身に覚えがあるか」とすごい剣幕で尋ねられました。
何のことだか全く要領のつかめない僕に、その刑事はさらに詳細を説明しました。
今朝、路上でバイクが歩行者の女性に接近しカバンをひったくろうとした。
女性がバッグを離さなかったためバイクは女性に接触し、路肩に転倒。
女性は軽傷で済んだものの、犯人はバイクを捨ててそのまま逃走した。
現場写真を見せられると、そこに映っているのは確かに、忽然と消えた僕のスクーターでした。
転倒のせいか大きな傷があり、ナンバープレートも外されているのですが、座面下のパネルに貼っているアウトドアブランドのステッカーを見ても、どう見ても僕のスクーターで間違いありません。
ナンバープレートが無いとはいえ、シート内にあった自賠責保険の証書にはばっちり僕の住所が書いてあり、それで警察が訪ねて来たということのようです。
このままだと危うく逮捕されかねないので、前日の晩に大学にスクーターで行き、そこでスクーターが突如無くなった事、帰宅し今日の夕方までずっと家で一人で寝ていたため身に何の覚えもないことを、僕は必死に説明しました。
スクーターが無くなったのならなぜ盗難届を出さなかったのかと、警察はまだ僕の説明を怪しんでいるようでした。
ただ、昨晩一緒にいたA・Bの連絡先を伝え、警察から二人に連絡し昨晩の出来事について尋ねてもらうと、僕が事件に関与していなさそうだという雰囲気になりました。
万が一さらに聴取が必要になった場合のために連絡先を交換し、断り無く遠出をしないことを約束させられてようやく、その日は帰宅することが許されました。
度重なる災難に心身ともに疲弊した僕は、道中のコンビニでストロングチューハイを買い漁り、家で一人Youtubeを観ながらやけ酒を始めました。
アルコールでイライラがぼやけてきて、気持ちよくベッドに倒れこんだ、そんな感じだったと思います。
「ピンポン」
チャイムの音でまた起こされました。スマホを確認すると深夜1時。
「ピンポン」
静まった深夜にチャイムの音がまた響きます。
「ピンポン」もう一度。
明らかに来客者など無いであろうはずの時間帯のチャイムに、心臓が速くなります。
ただ、先ほどの警察である可能性も考え、僕はおそるおそる玄関に向かいました。
覗き穴から見えたのは、黒いフードを被った人。
うつ向いているのか顔はよく見えませんが、薄暗い肌をしているように見えます。
「ピンポン」
(誰だ…?)
「ピンポン」
さらにチャイムが鳴る中、アルコールで鈍った私の脳は突然回転を始めました。
(洞窟から出てきた男、黒いフード、自賠責保険証明書にあったここの住所……)
「ガチャガチャガチャ」
見るとその男はドアノブに手を伸ばして乱暴にドアを開けようとしています
(やばいやばいやばいやばいやばい)
もしこの男があの男だとして、スクーターの持ち主の所に来る理由は…?
恐怖で叫び声が出る寸前ですが音は出せません。
ガチャガチャと乱暴にひねられるドアノブに目をやったまま、静かに足元から一組のクロックスを掴み、スマホと財布をポケットに入れ反対側のベランダからアパートの裏側にジャンプしたあと、息をするのも忘れて最寄り駅まで走りました。
駅前のカフェから電話で友人Aを叩き起こし、何とかお願いして彼の下宿先に転がり込みました。
もちろん、Aの下宿先からすぐに警察に通報しました。
警察が僕の自宅に着いた時には、もうそこには誰もいませんでした。
ただ、鍵が壊されて室内に侵入された形跡があり、一方で部屋が物色されたような形跡はありませんでした。
様子を見るに目的は窃盗ではないかもしれない、と警察から説明されて、さらに背筋が凍りました。
翌朝、例のひったくり事件を担当している刑事からも電話がありました。
刑事は昨晩の出来事についてもすでに聞いているようで、私の安否を再度確認した後、静かにこんなことを言いました。
今から聞くことはあまり公にしないでほしい。
現場付近の監視カメラを何か所か確認し、ひったくりの犯人があなたでないことは分かった。
まだ断言はできないが、外国人の犯罪グループが関係している可能性がある。
公には言えないのだが、このグループの逮捕や検挙はほぼ不可能に近い。
すでにあなたの住所を知られている可能性があるので、安全のためできればすぐにそこを離れてほしい。
家にもう帰れなくなった僕は、引っ越し代行サービスを利用して荷物をまとめてもらい、数日のうちに下宿先を引き払って実家に戻りました。
その後も時折、人混みで黒いフードを見ると恐怖に襲われることがあり、今は日本を離れ海外に在住しています。
今に至るまで、黒い服に身を包んだあの男については、何の情報もありません。
古い洞窟に潜伏していた男、そこに関係しているかもしれない犯罪グループ、真相は今でも闇の中です。