僕が小学校の頃に住んでいたマンションには、裏手に川があった。
 それは幅が10メートルもない小さい川で、僕たちはよく、意味もなく川に石を投げこんだり、川原の草をむしって川に流したりして遊んでいた。
 僕の自宅はマンションの4階にあり、窓やベランダからは角度の関係で川原しか見えなかった。
 それでも僕はよくベランダの手すりに寄りかかって川原をぼーっと見つめ、視界の外にある川の様子を空想したものだった。
 夏にやってくる台風の季節が、僕はとても好きだった。
 台風で大雨が降ると、増水した川の水面の様子が自宅からも見えるようになるからだ。
 窓から見える茶色く濁った荒々しい川は、まるでいつも遊んでいる友達が突然全く違う顔を見せるようで、僕の興味を惹きつけてやまなかった。
 僕はよく窓のそばに椅子を持ってきては、そこに座り時間も忘れて川の様子を眺めていた。

 ある秋の初め頃のこと、この日も日本列島には大型の台風が接近していた。
 暴風警報が出たため小学校は休校になり、早朝からの大雨が午前中にはすでに川を増水させていた。
 学校が休みになり時間を持て余していた僕は、この日も椅子を窓のそばに配置し、ごうごうと流れる川の様子を眺めていた。
 増水した茶色い川には、時折木材やトタン板のようなものが流れて来る。きっと台風の暴風が、どこかの資材置き場から連れてきたのだろう。
 そんな取り留めのない空想に、僕はただ身を任せていた。
 ふと、あるものが僕の目を引いた。
 人だ。人が流れている。
 水面には肩から上だけしか出ていないが、あれは人で間違いない。 大変だ。
「おかあさ」と言いかけたところで、僕は奇妙なことに気が付いた。
 まばらに生えた長い髪。顔ははんぺんのように白く、ふくらんでいる。
 ……ふつうの人じゃない。男か女かもわからない。生きていない人? (こわい)という感情で頭が一杯になっていくのと裏腹に、僕の体は勝手に動き出した。
 目いっぱいに窓を開け、濡れるのも構わず、吸い寄せられるようにベランダに身を乗り出した。
 目により鮮明に飛び込んでくるそれ、白く、いびつにふくらんだ顔は、普通の人間の顔の3倍はありそうな大きさをしていた。
 生きているのか死んでいるのか分からないそれは、万歳のように両手を挙げ、手をふらふらと左右に振っている。
 その動きには、助けを求めているというような必死さはみじんもなく、むしろ優雅に踊っているようでさえあった。
 そして僕は気づいた。
 こちらを見ている。
 ふくらんだ顔に見合わない、小さくて真っ黒な目が、確実に僕に気づいて、こちらを見ている。
 そして聞こえた。
「いくよ」
 そして息ができなくなった。

 次に覚えているのは、ほっぺたを何度もたたく母さんの必死な顔だ。
 僕は窓を開け放ったまま、ベランダで倒れていたそうだ。
 ほっぺを叩かれて意識を取り出した僕は、途端猛烈な吐き気に襲われた。
 そして見たこともない灰色の液体をたくさん吐いた。
 意識はあったが、母さんは僕をすぐに病院に連れて行った。
 レントゲンを取った結果、胸水といって肺の外側に水が溜まっていて、チューブで水を抜くために入院になった。
 チューブで出てきた水は、僕が吐いたのと似たような灰色の液体だった。
 その灰色の液体には、母さんのより長い、髪の毛が幾らか混じっていた。
 あれから僕は、川を見るのをやめた。

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