よくある話

 夏の長期休暇もそろそろ終わりという頃、Kさんの元に一件の電話が入った。学生時代の後輩であり、今でも交友があるYさんという人からだった。
「ちょっと怖いことがあったんで聞いてくださいよ」
 久しぶりの連絡だというのに、Yさんは挨拶もそこそこに開口一番そう捲し立てた。
 Kさんと同じく、長期休暇を謳歌していたYさんは、昨晩友人の家へ泊まりに行ったのだという。
 そろそろ休みも終わりに近いし、休暇中はしょっちゅう遊び歩いてばかりいたので疲れも溜まっており、友人宅では何をするでもなく、ただ夜中まで駄弁っていたそうだ。
 貧乏な学生時代のように、お金を使わずに出来る田舎の暇つぶしとしては割とよくあることだったので、懐かしさも手伝ってYさんたちは遅くまで話し込んでしまった。
 夜も更けてきた頃、少し小腹の空いてきた二人はコンビニでお菓子でも買おうと思い、外に出た。
 田舎なので最寄りのコンビニまでは車でも五分ほどかかる。Yさんが、乗ってきた車の運転席に乗ろうとすると、友人が背後で「うわっ」と声をあげた。
 何事かと思って彼が指す場所をYさんが目で追うと、運転席側の窓に、何やら小さな汚れが付着している。近づいてよく見てみると、それは小さな手形だった。
 Yさんや友人の掌と比べても小さく、子供が押し当てたような手形が、窓の中央にくっきりと跡になって残っていた。
「どこかの小僧がベタベタ触りやがったな」そう思ったYさんはティッシュを使ってさっさと汚れを拭き取ろうとする。だが、いくら擦ってもその手形は消えるどころか、滲みもしない。
 なんでだろうと思っていると、友人が苦虫を噛み潰したような顔になって言った。
「中じゃねぇの、これ?」
 言われてYさんが内側から拭き取ってみると、それはあっけなく拭き取れてしまった。汚れは確かに、車内から付けられたものだったのだ。

「ちょっと待て、それめちゃくちゃよくある話じゃん」
 Kさんは思わず、勢いに任せて喋り続けようとするYさんを遮った。
 車に付いた手形、という話はもはや古典的と言っていいほど定番の、よくある怪談話だ。
「実は手形は外ではなく、中からつけられていた」、つまり幽霊が中に居たのだ、というオチもありがちな話である。
 Kさんは怪談話に特別明るい方ではなかったが、それでも似たような話はいくつか聞いたことがあった。一方Yさんは、怪談を進んで読んだり聞いたりするタイプでは全くない。
 この形式の緩急がある話を仮に初めて読んだ場合であれば、確かに怖く感じるだろう。だがこれには弱点が一つだけある。
 もうオチがわかっている人間に看破された場合、全く手応えのないリアクションで終わってしまうのだ。まさに今のKさんのように。
 大方、ネットかどこかで仕入れた話を、さも自分の体験のように語ってきているのだろう。この夏の時期になるとそういう手合いの者が知り合いに現れるということはよくある。
 だがYさんは、確かに自分の体験であると言って譲らない。
「で、凄いゾワっとしたんすけど、よくよく考えたら僕、子供乗せてんすよ」
 長期休暇で遊び歩いていた中でYさんは、子供の居る友人の家に遊びに行ったり、実家に行った時に親戚の子供と遊んでいたりしたそうだ。時期がちょうどお盆と重なっていたので、いつもより余計に子供と接する機会は多かった。
 その時は車も近くに置いていたし、もしかしたら何かの拍子に鍵をかけ忘れていたとかで中に入られたのかもしれない。そう考えると手形がついていても別に不思議じゃないと思い直したのだという。
 でも、車好きの自分が今まで気づかなかったのが不思議だったそうだ。
「もしかしたら、本当に子供の霊とかだったりして……」
 Kさんの顔色を伺うようにわざとらしく上目遣いを作ったYさんが、大きく溜めてゆっくりとそう言った。それが、Yさんの話のオチらしかった。
 あまりに陳腐で、おまけに話が下手過ぎる、とKさんは思わず吹き出してしまったそうだ。
 日常にあるちょっと不思議な現象も、紐解いてみれば些細なことの重なりだったりする。Kさんは話題を他愛のないものにさっさと変え、その日の会話はそれで終わった。

 数日後、いよいよ休日も終わりだという日に、YさんがKさんの家へ遊びに来ることになった。
 駐車場に停められた車まで彼を迎えに行こうとしたKさんは、その窓を見て思わず吹き出しそうになった。
「おい、お前やりやがったな、コレ」
 Yさんの車、その運転席側の窓には、小さな手形の汚れが付着していた。
 今の今まで忘れかけていた話だったが、先日聞かされた手形の「よくある話」を思い出した。
 あの時Kさんのリアクションがあまりにも悪かったせいだろうか、普段ならそんな悪戯はしてこないYさんの茶目っ気がやけにおかしくてたまらなった。
 しかし当の本人は、それを見つけるなり真っ青な顔になって、ものすごい勢いで汚れを拭き取ってしまった。その様子があまりにも普段のYさんとかけ離れていたため、Kさんは少し面食らってしまった。
「実は、これのことを相談しようと思って」
 Yさんはそう言って、Kさんに話を始めた。流石に冗談を言っている雰囲気ではないのを察したKさんも茶化さずに聞き続ける。
 Yさんはあの日からずっと、何者かに手形をつけられ続けているのだそうだ。
 何かの拍子に車に乗るたび、全く同じ位置に手形がついているのを見つけては拭き取る。そんなことをもう何度も繰り返しているのだという。
 それは一夜明けた朝とか、仕事から帰宅する際など、車に乗るときには必ずと言っていいほど起こるそうだ。
 何よりも不気味なのは、乗り込む前はそんな手形などないことを確認しているのにも関わらず、降りる時になって手形が付着していると気付くことだった。
「マジで中になんか居るんじゃないかと思って、怖くて怖くて……」
 Yさんはそう言いながら、クマだらけになった目を伏せた。そこで改めてYさんを観察すると、酷く憔悴している様子なのが伝わってくる。
 しかし、先ほど自分も実際に手形の跡を見たとはいえ、Kさんは未だその話を完全に信じる気にはならなかった。
 誰かのイタズラだという線は消えるかもしれないが、一つだけ科学的に解決出来る答えが残っているからである。
 それは、「激務で疲弊したYがひどい妄想に取り憑かれている」という残酷な可能性だった。
 Yさんは職場の人間関係で悩むことが多く、何かあるたびに辞めたい辞めたいと愚痴を言っていたし、ついこの前もKさんは相談に乗ったばかりだった。
 その度になんとか励ましてはいたが、ついにここまで思い詰めるようになってしまったのかと思うと、Kさんはこの話に今後どう付き合うべきか迷ってしまった。
「お祓いとか行ったほうが良いんすかね」
 そう聞いてくるYさんに、しないよりはいいんじゃないかと助言し、気分を変えるために一旦外食をしようということになった。疲れている様子の彼に代わりKさんが運転することになり、彼の好きなチェーン店を奢ることにした。乗り込んだ時、改めて見ても運転席の窓に手形はなかった。
 味気ない食事を終えて店から出た時、夏の真昼だというのにKさんは寒気に襲われた。
 駐車場に停めていたYさんの車の運転席に、手形がついているのを見てしまったせいだった。
「ほんの数分間のうちでした。誰も乗っていないはずの車の内側から、手形が付けられてたんです」
 Kさんは俯きながら、言葉を地面に落とすように言った。
 その手形は、先ほど確かに見た手形とそっくりそのまま同じ位置にあり、手のひらをガラスに押しつけた際の皮脂のつき具合までが全く同じように見えた。自分の手よりもだいぶん小さい、子供のものだと思しきサイズ。大きく広がった五つの指が放射状に広がった、綺麗な「パー」の形。
 Kさんはその手形の詳細を、今もまだはっきり思い出せるのだそうだ。

「火のないところに煙は立たず、って言いますよね。つまり、よくある話って、同じような経験をした人が実際に多くいるって事なんじゃないでしょうか。下手したら、全国各地の規模で」
 そして、それらの話にはきっと、体験者が気づいていない、もしくは語られていない「続き」があるはずだと、Kさんはクマを拵えた目で私を見つめた。
 その後Yさんはお祓いを受けたそうで、それが効いたのかどうかは定かではないが、それから手形を見ることも無くなったそうだ。やがて何かに怯える様子は無くなっていき、以前のような活発な姿に戻っていったという。
「自分もこれでお祓いは済んだので、もうあれを見なくて済みます」
 取材を終えたKさんがそう言って力無く微笑み、去っていく後ろ姿が、何故だか妙に印象に残った。

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