ぬしさま

 年配の親族の集まりなど、若輩者には得てして退屈なものである。
 よく冷えた麦茶の入ったグラスを伝う澄んだ雫だとか、微かな音を立ててくるりくるりと健気に働く扇風機だとか、そんなところばかりに視線をくれて私は暇を持て余していた。
 同年代の人間がいないのも相まって、まったく会話についていけない。
 延々と語られる昔話は花を咲かせ過ぎて、目に見えるものなら部屋の中は今頃花畑と化している事だろう。
 欠伸を噛み殺して座卓の木目を無意味に眺めていた時だった。
「あれは本当に恐ろしかった。食われるかと思った」
 不穏な言葉が聞こえ、私は視線を上げる。声の主は母方の叔父だ。
 麦茶のグラスを手に、緩く首を振っている。
「何だ、熊でも出たか」
 近くの席の親戚がカラカラと笑う。どうやら、かつて山仕事をしていた時の話らしい。
 叔父は徐に煙草を取り出すと火を点け、大きく一息吸い込んだ。
 吐き出された淡い白煙がゆらりと部屋を漂って、その苦い香りだけを残して消える。
「熊じゃねぇ。姿は見てないが、あれは山の主だろう」
 山の主? 聞き慣れない単語に私は耳を聳てた。
 現状に飽き飽きしている人間にとって、とても刺激的で興味を引かれる響きだったのだ。

 大分昔の話になるが、母方の祖父と彼の長男である叔父は、とある地方の小さな山で働いていた事がある。
 陶芸に使う土や釉薬の材料を採りに行っていたのだそうだ。
 これがまた、やたらと蛇の多い山で、登るにも下るにも難儀したと聞く。
 山道を歩けば藪から飛び出し、木々の枝からぶら下がり、蛇嫌いが迂闊に通れば卒倒するであろう状況だったという。
 さて、そんな山で仕事を続けていたある日の事。
 祖父は麓へ停めた軽トラックに採掘道具の一つを置き忘れてしまった。
 大きくもない山であるから、年若い息子にひとっ走りして取って来てもらおうと思った。
 息子である叔父は二つ返事でこれを了承。颯爽と麓を目指したが、気が急いたものか、普段通う道を間違えた。
 己が過ちに気づいた時には眼前に深い谷が広がっていたそうである。
「引き返せばいい。頭では分かってるのに足が動かねぇんだ。山とはいえ真夏なのに寒くてな。虫の声も鳥の声も何もせん。耳に痛いくらいの静寂ってやつだ」
 地面から足を伝って這い上がる冷気。生臭さを纏った空気は湿度を含んで只管に重く、息苦しさを覚える。
 悪寒が背筋を撫で、身の毛がよだつ。
―――いる。何か、得体の知れないものが、この谷の底に。
 叔父は震えた。
 胃の腑がぎゅう、と縮む心持ちで視線だけを地の裂け目へと向ける。
 青々と茂る木の枝葉に隠されて奥底は見えないが、ぞろ、と重厚な気配がした。
 これ以上近づけば食われる。それは彼の直感だったらしい。
 草を払い足元の小枝を踏み折り、文字通り転ぶように谷を抜け出して山道を駆け下りた。
 軽トラックまで辿り着き、目的の道具を手にしても尚、冷や汗が止まらない。再び山へ入る事が躊躇われる程だったと彼は語った。
「もうあんな思いは懲り懲りだなぁ」
 短くなった煙草を最後に強く吸い、灰皿へ押しつける。ひしゃげた先端が赤色を失って灰に変わった。
「あらぁ、あの山がそんなところだったとはねぇ」
 やや張り詰めた雰囲気を破ったのは、祖母の声である。
 祖父の妻、つまり叔父の母だ。
 麦茶のお代わりを皆に配って歩きながら懐かしそうにしている。久方振りに当時を思い返しているようだ。
「毎日お爺ちゃん達にお弁当を届けに登ったけど、お婆ちゃん、蛇なんて一回も見なかったわ」
 はて。話が違うのでは、と親戚達も私も首を傾げた。祖父と叔父が顔を見合わせる。
「あの山でか? 一度も?」
 祖父が重ねて問うが、祖母はしっかりと頷き返して否定した。
「見てないわね、一回も」
 僅かな間を置いて、叔父が笑い声を上げた。祖父も肩を揺らして笑っている。
 二人に置き去りにされた親族達は、呆けた様子でそれを眺めるしかなかった。
「こりゃすごい」
「本当になぁ。てっきり少しばかりは蛇を見たものだと思ったのに」
 どういう事だと尋ねる声が上がる。祖父はぐいと麦茶を飲み干してから、ゆったりと口を開いた。
「山ってぇのは、何がいるか分からん。だからな、わしらは山に入る前に必ず挨拶しとったのよ」
 下見に訪れた際、すこぶる蛇が多いと知った祖父は挨拶の口上に言葉をつけ加えたそうだ。
『これから暫くの間、こちらの御山で陶芸用の土と釉薬の材料を頂きたく思います。私らが働いてるうちは、私の嫁も弁当を届けに来る事でしょう。けれども妻は心臓が弱い。どうか、蛇に驚いて発作が起きぬよう、妻の通る時だけは山道の蛇を減らして下さいませんか』と。
 結果として祖母は終ぞ蛇に遭遇しないまま、祖父達に弁当を届け切った。果たしてこれは偶然か。
「やっぱり、山の神様や主様は粗末にしちゃならん。たとえ姿は見えなくとも、そこにいるんだ。俺は身に染みて学んだよ」
 叔父は新しい煙草に火を点けて、天を仰ぐような仕草をした。
「ああいったものに、不用意に近づくもんじゃない。遠くから敬うくらいで丁度いい。山でも森でも同じだ。虫だの鳥だの、生き物の気配がしない場所には近寄るな、絶対に」
 もしもうっかり、本当にうっかり、そんな場所に入ってしまったら。
「誠心誠意謝って、全力で逃げろ。運が良けりゃあ見逃してもらえるさ」
 俺みたいにな、と苦笑いする叔父の吐き出した煙を、扇風機の静かな風が攫っていった。
 これは今から二十年も昔に聞かされた話だ。
 折に触れては思い出す、心覚えの一つである。

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