小学5年の夏休みの話。
大阪の端っこの、田畑と里山に囲まれた地域に住んでた私の夏休みの日課は、朝4時に起きることだった。
夏とはいえ、まだ陽も昇らない暗い時間に目覚ましで起きた私は、服を着替え、懐中電灯、その他道具を携え、弟と両親を起こさない様に玄関をそっと出る。
この時間に外へ出ることは両親も了承していた。
(ちなみに、親の立場になった今、よくそんなことを許していたなと思う)
真っ暗な田舎道を、自転車で10分程漕いで着いた先は、雑木林の入り口。
黒く塗りつぶしたような鬱蒼とした林は、林というより森である。
わずかな風にサワサワと音を立てる林へ懐中電灯を向けると、暗闇が、その光さえ吸い込んでしまう。
私は、今からこの雑木林に踏み入ろうとしている。
怖いに決まっているのですが、その怖さを凌駕する楽しみがこの林の奥にあったのだ。
フワフワとした踏み心地の腐葉土から立ち上るカビ臭い様な蒸れた空気の中を進んでいくと、熟し過ぎた果物の様な臭いが微かに混ざり込んでくる。
目的の場所はもうすぐ。
その臭いを強烈に感じるようになった頃、一本の大きなクヌギの木が現れる。
臭いの元となる木。私の目的はこの木であった。
この木の樹液に集まるカブトムシやクワガタを採集するために、この時間、この場所に来たのだ。
今日は何が捕れるのかとワクワクしながら、懐中電灯をジュクジュクと湿った木のウロに向けようとした時、背後からパキッと小枝を踏むような音が聞こえた。
ドキリとしたが、時々同じ目的の親子連れや自分より年上の少年達なんかと鉢合わせることがあったので、今回もそうだろうと、懐中電灯と共に後ろを振り返った。
そこにいたのは、女の子だった。
自分より1~2歳年上ぐらいの女の子。
肌の色がとても白く、ぼんやり光っているように見えて、ぎょっとした。
白っぽいちょうちん袖のブラウスと黒っぽいひざ丈のスカートで、袖と裾からは細い手足が出ていた。
右手には1メートル程の長さの棒きれを持っている。
おかっぱ頭で、顔は… 顔は、何というか、すごい意地悪な表情をしていた。
うつむき加減で上目遣い、口元は片側に歪んでニヤリとしている。
本当に絵に描いたような意地悪な顔。
(えっ?なに?この子、お化け?人間?女の子がこんな時間に一人で虫取りに来るか?)
そんなことをビビりながら頭の中でグルグル考えていると 「ここが本場(ほんば)なんか?」 と、女の子が問いかけてきた。
本場というのは、地元で、カブトムシが捕れる場所や木の事を指す言葉だ。
人それぞれ、自分の本場を持っていて、それは秘密情報だった。
「ほ、本場の一つやけど、一番の場所はここちゃうよ!」
唐突な問いかけと、問いかけの内容が秘密の場所に関わることだったので、どぎまぎしながら咄嗟に答えた。
本当は、ここが一番の本場だった。
そのやり取りの間に女の子は私に近づいてきた。
得体の知れない女の子に間合いを詰められるのはなんだか怖いのだけれど、後ろはクヌギの木があって下がれない。
やっぱりなんだか女の子自身がぼんやり光ってるような気がする。
お化けな気がしてきて鳥肌が立つ。
「ゲンジ、欲しいんやろ?」
女の子がまた問いかけてくる。
ゲンジとは、地元の言葉でクワガタのことである。
回答を言い淀んでいると、女の子がいきなり手に持っていた棒きれで私の腹を突いてきた。
痛くはなかったけれど、突然の行動に反射的に「いたっ!」と叫んでしまった。
突かれたところに目をやると、ちょっと黒く見えた。
えっ?!血が出てる?!と思い、慌てて懐中電灯で自分の腹を照らすと、それは血ではなく、樹液の様だった。
松ヤニぐらいの粘度のありそうな茶色いベトベトした樹液。
その樹液の真ん中が小さく盛り上がり、もぞもぞと動いているように見える。
目の前まで服を引っ張り上げて見ると、樹液に捕らわれた虫が一匹蠢いていた。
虫は仰向けに引っ付いて、六本の足をバタバタしている。
ヨツボシケシキスイ と、いう虫だ。
今の状態では見えないが背中に4つのオレンジの斑点が付いている虫。
クワガタに似ていなくもないが、体長が1センチほどで小さく、子供たちの間ではいわゆる「雑魚」の虫である。
そいつを摘まみ剥がして藪に放り投げながら 「こんなんいらんわ!」 と女の子に文句を言った。
女の子は相変わらずの意地悪顔で 「じゃあ、これか?」 と言うと、また棒きれで今度は右胸辺りを突いてきた。
すぐに懐中電灯でその部分を照らすと、そこには立派な角を持ったカブトムシ……の、頭だけが引っ付いていた。
わあっ!と叫びながら角を摘まんで捨てた。
「もう!やめろや!」
そう、強く怒鳴った。
その表情通りの意地悪な行動に、お化けか人間かという事など関係なくなって、只々腹が立っていた。
でも女の子は怯むことなく、相変わらずの意地悪顔で左胸を突いてきた。
「もう!やめろって!」 と大声で怒鳴り、女の子に向かって拳を振り上げて殴る素振りをした。
それでも女の子はまったく怯えることなく、相変わらずの意地悪顔で私を見ている。
またろくでもないものを付けられたんだと左胸を見ると、ノコギリクワガタが生きた状態でモゾモゾ動いていた。
とても立派な顎を持っていて、地元で「水牛」と呼ぶ最高のやつだった。
やったー!と一瞬思ったものの、なんだか女の子に貰ったことが、負けた様なというか、そんな気持ちになったので 「自分で捕るからいらんわ!」 と、そのノコギリクワガタも放り捨ててしまった。
そして、もう早くどこかに行ってくれという感情を態度で示すため、クヌギの木の方に向き直って女の子を無視するように虫捕りを再開しようとした。
「ムカデがおるで…噛まれるで…」 と背後で女の子が、たぶん意地悪そうな顔で言った。
スズメバチには時々遭遇したが、ムカデには今まで会ったことはない。
肉食のムカデは樹液には来ないだろうと思ったので無視してウロを覗き込んだ瞬間、ズルリと大きなムカデが這い出てきた。
ひゃあ~っと情けない声を上げてのけ反った。
背後から、くっくっく…と女の子の意地悪そうな笑い声が聞こえる。
その笑い声に続いて 「マムシがおるで…噛まれるで…」 と、また嫌なことを言ってきた。
右足に何かが触れた。
触れたというか乗ってきた。
夜明けが近づき、懐中電灯が無くてもうっすら見える様になった足元に視線を落とすと、運動靴の足の甲を横切るようにゴムホース状のものが乗っている。
蛇だ。
ゆっくり移動している。
うっすら見える模様で何蛇かを悟った。
学校の朝礼で校長先生が説明していた銭形の模様、マムシだ。
身体が硬直して、冷たい汗が全身を伝う。
(早く通り過ぎて!)と必死で願うも、マムシは悠然とスローモーションのようにしか移動しない。
ようやく尻尾が通り過ぎて、でもまだしばらく動けず、藪の向こうに姿が消えてから、ようやく硬直が解けた。
別に女の子がムカデや蛇を私に投げつけたとかではないのだけれど、とにかく女の子に文句を言おうと振り返ると、女の子はもういなかった。
更に白んだ林の中、見える範囲には、もうどこにも姿が無い。
腐葉土を踏みしめる音も聞こえない。
痕跡もなく消えたのと、いろんなことが立て続けに起こった後の早朝の静寂の中に佇んでいると、なんだか夢だったような気持ちになったのだが 自分の服を見ると、三か所に黒ずんだ樹液が付いていたので、夢ではなかったことを悟った。
そうこうしているうちに夜も明けてしまい、虫も一匹も捕れず、さっき捨てたノコギリクワガタも探してみたが見つからなかった。
意地悪な表情、行動だったけれど、ノコギリクワガタをくれたことだけは好意だったよなと気づいて、ちょっと後悔の気持ちが立った。
家に帰って、汚れた服を見た母に怒られた。
服を脱げと、汚れていないズボンまで脱がされて、パンツ一丁になってテレビを見ていると、キャーと母の悲鳴が洗濯場から聞こえた。
駆けつけてみると、座り込んでる母の周りに黒い粒が無数にばらまかれていた。
よくみると、それらはヨツボシケシキスイだった。
ズボンを洗濯機に入れる前にポケットをひっくり返したら出てきたという。
逃げ回るヨツボシケシキスイを拾い集め、母に言われて他のポケットを私が確認したが、それ以外は何も入っていなかった。
まあ、カブトムシの頭やクワガタが入っていたら気づいてたと思うけど。
結局、洗濯しても汚れは落ちず、服を一つダメにしてしまったことで母の機嫌を損ねた結果、早朝の虫捕りを禁止されてしまった。
それにしても、あの女の子は本当に何だったのだろう。
人間なのか、お化けなのか、はたまた雑木林の精なのか… 諸々状況を考えると、人間だった可能性が一番ないように感じる。
棒きれを持っていただけで、懐中電灯さえ持っていなかったし。
あの意地悪な顔さえしていなければ、可愛らしい顔立ちだった様な気もする。
翌年、早朝虫取りの禁は解かれたが、それ以降もう二度とあの女の子に会うことはなかった。
マムシには何度か遭った。