小学3、4年生頃の冬の話。
家族で母方の伯母の家に遊びに行き、晩御飯をよばれた後、そろそろ帰ろうかとなった。が、ちょうどその時間、観たいテレビが始まろうとしていた。
今帰ると、家に着くころにはもう終わってしまって観ることが出来ない。
どうしても観たかった私は親に懇願したが、父の用事があるという事で聞き入れてもらえない。
がっくり落ち込んだ私を見かねたのか、伯母が、私だけ泊まっていけばいいじゃないかと提案してくれた。
両親は申し訳なさそうにしていたけど、私は歓喜し小躍りして伯母に感謝した。
両親が私を置いて帰り、果たして、観たかったテレビを私は楽しむことが出来た。
寝る時間になり、私は、居間のテレビとコタツの間のスペースに布団を敷いて貰い、そこで一人で寝ることになった。 伯母家族もそれぞれの寝室に入った。
――夜中、目が覚めた。
月明かりがカーテン越しに、青白く部屋の様子をぼんやりと照らしている。
薄暗い中の壁掛け時計の針は、午前2時過ぎを指していた。
ふと、ある音に気付いた。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
なんだか水を流すような音。
布団に入ったまま天井を見つめて、聴覚を研ぎ澄ませ、音の方向を探ると、どうやら伯母の家の風呂場から聞こえてくるようだった。
自分が寝ている居間から廊下を挟んだ向こう側にある風呂場から聞こえてくるその音は、どうやら「かけ湯」をする音だ。
湯船から洗面器でジャボンと湯をすくい、ザザーと身体にかけている。
こんな時間にお風呂に入るだなんて誰だろう? 伯母かな? などと考えている間も、ずっとかけ湯をしている。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
いやいや、いくら何でもかけ湯し過ぎだろ。 湯船のお湯がなくなっちゃうよ。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
終わらないかけ湯の音に、急激に恐怖が沸き上がってきた。 異常である。かれこれ30分以上かけ湯をしている。
ひょっとしたら、かけ湯じゃないのかもしれない、風呂の残り湯を利用して洗濯でもしているんじゃないかなどとも考えてみるけど 同じ調子の音しか聞こえてこない。
こする音も、ゆすぐ音も、しぼる音も聞こえない。 やっぱりかけ湯の音というのがしっくりくる。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
1時間経った。 最早気にせず眠るという事は出来なくなっていた。
気になって仕方がない。怖い。なんだかとても怖い。
が、怖いのに、なぜか音の正体を確認しなければと思った。
こんなに恐怖を感じているのに、どうしても確認しなければならいという気持ちがどんどん大きくなってくる。
そしてついに布団を出て、居間の引き戸の前に立った。スーっと戸を開けて廊下に出る。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
音が、ひと際大きくはっきり聞こえるようになった。
居間と同様に、月明かりで青白い廊下の向こう、風呂場の手前にある洗面所が暖簾の向こう側で闇に沈んでいる。その奥の風呂場に電気は付いていない。
冬の暗闇の風呂場で延々とかけ湯… その姿を想像してゾッとする。
ひょっとしたら、ご近所に迷惑をかけない様に電気を点けないのかもと思うも、それよりかけ湯の音の方が迷惑だよなと、その案は一瞬で打ち消された。
そもそも、私がこんな時間に起きたのも、この音のせいだったのではと思いつつ、足は風呂場に向かっていた。
こんなに怖いのに、本当にものすごく怖いのに、とうとう風呂場の扉の前まで来てしまった。
プラスチック製の曇りガラスがはめ込まれた2つ折れの引戸の向こうは、風呂場の小窓から射し込んでいるであろう月明かりの青白い闇がある。
ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー…、ジャボン…ザザー………
布団に戻りたいのに身体はその行動をとらない。 とらないどころか、手は引戸の取っ手にかかっている。
鼓動が、鼓膜が痛くなるほどに高鳴る。
ガラガラッ!
勢いよく扉を開けた。カンカラカラカラカーン! と、洗面器が投げ捨てられたように洗い場でクルクルと暴れまわっていた。
呆然と洗面器を見つめている私。
やがて細かく痙攣するように、洗面器はうつ伏せで静かになった。
湯船の蓋、くるくると巻くタイプの蓋は閉まっている。
その湯船の蓋から目が離せない。
カタ………
湯船の蓋の中央がちょっと盛り上がったように見えた瞬間、はっとして、全速力で居間に戻った。
コタツに潜り込み、耳を塞いで、心の中で念仏的なものを唱えた。
カタ…カタカタ……
それでも湯船の蓋が持ち上がるような音が聞こえる、いや聞こえてるような気がしていたのかもしれない。
私はそのまま、気絶したのか、眠ったのか、意識が遠のいていった。
「ここにいたっ!」 という声に目覚めた私は、こたつの中を覗き込む目と、目が合った。
ドキッとしたが、その目の正体は、伯母の娘、従姉だった。
従姉に促されコタツから出ると朝になっていた。
どうやら、朝、私を起こしに来たら布団がもぬけの殻だったので、夜のうちに誘拐でもされたのかと、ちょっとした騒ぎになっていたらしい。
で、従姉がコタツの中で私を発見したという顛末。
なぜ誘拐でもされたのかと思ったかと言うと、家の中に異変があったらしい。
居間の私の布団周りや廊下、風呂場前辺りが点々と濡れていて、廊下には小さな水たまりも出来ていたという。
風呂場の小窓から入って来た何者かが私をさらっていったのかと、そんな風に思ったそうである。
「本当に心配したのよ」と言いながら伯母が廊下を拭いていた。
夜の出来事は伯母家族には言わずにいた。
自分の中では、かけ湯の音は、風呂周りの水道管か何かからの音。
洗面器は、自分が勢いよく扉を開けたせいで落ちた。
廊下などが濡れているのは、居間に帰ってくる際に自分の足が濡れていた。 という事で決着をつけた。
それから数か月後、また従姉の家に泊まった。
午前2時過ぎ。 かけ湯の音が聞こえた。