隣家の住人

ベランダに出てタバコを吸う。
越して来て間もない部屋をヤニで汚したくないのと、
タバコの匂いを付けたくないからだ。

私が越して来たマンションの隣にはお庭のついた割と大きな民家があった。
改装を施して明るい感じにリフォームされているが、
造り自体は何というか旧農家みたいな日本調のどっしりした雰囲気が伺えた。
そして、その向こう側には明らかに造りが新しい、
ちょっと小さめの建屋が同じ敷地の中に隣接している。
思うに、これは母屋と離れという物だろう。
向こう側の建屋はよく見えないけど、手前の母屋と比較して一周りほど小さいようであるが、
おそらくはもっと小さかった離れ座敷を立て壊して新設し、今は息子夫婦が住んでいる。
その見栄えがあまりにも良かったので、母屋の方も壁も塗り直して改築しちゃおうか。などと。
ベランダでタバコをくゆらせながら、私はそんな勝手な想像をしていた。

さて、その隣家の事について私はひとつ不審に感じた事があった。
生垣に隔てられてよく見えないのだけど庭には池があり、
昼間などは水面が反射したり、噴水だか浄化だかの音でそれが分かる。
夜中の11時頃。あるいは0時を過ぎてから、
その家の主人が池を照らして何かを見回る様子が伺える。
それも毎夜の事だった。
最初のうちは私がたまたまベランダで喫煙していて、
たまたま主人が庭で何か探し物でもしていた。
あるいは池の中には何十万とか何百万とかする錦鯉がいて、
それを夜中に鑑賞するのが主人の趣味だとか。夜の水族館みたいな感じで。
ところがそれは毎夜続いた。
時間は多少ズレがあるけど、概ね午前0時前後。
私がたまたまベランダにいる時も部屋の中にいる時も、
早々とベッドに入って就寝についた時も。
なぜそれが分かるかと言えば、まず隣家の壁に明るいライトがしばしば反射して見える事。
それに隣家の主人と言うと四六時中ひどい咳をしていて、
「カーッ、ペッ」っと庭に痰を吐き散らす。
私はそれが不快で仕方なかったのだ。
気になり出すとサッシを閉めていてもそれが聴こえる。
だからこの部屋はこんなに綺麗で日当たりもよく、
駐車場までついてこんなに家賃が安かったのか。
そんな事はないだろう。
そんな事を言えば、このマンションの少なくとも半分以上の人は
私と同じくあの「カーッ、ペッ」に不快な思いをしているに違いないのだから。

ある夜の事。
私はベランダから隣の建屋を見てドキリとした。
夜中に他人の家の中を覗き込むようなつもりはなかったのだけど、
何気に見たら人と目が合ったのだ。
生垣の上から隣接する母屋のサッシガラスの上の方がやや見降ろせる。
部屋の中の灯りは消されていて暗かったがそこに女性らしい人がいて、
私を見るとニヤリと笑った。
髪型までは暗くて分からなかったけど、
オカッパみたいに髪を前でパッツリ揃えて目を見開いたまま口を大きく横に拡げて笑ったのだった。
気まずくなった私は思わず軽く会釈をした。
びっくりした。人が見てると思わなかった。

その夜の明け方に救急車が停まる音に目を覚ました。
隣家の壁に赤い赤色灯が反射している。
赤色灯はすぐに消されたが、しばらくざわざわして再び灯されると救急車は去って行った。
マンションの真横を通り、感染道路に出たあたりでけたたましくサイレンが鳴った。
隣のオヤジだな。四六時中ひどい咳をしていたからな。
そう思ってベッドの中にいると、またしばらくして赤色灯の反射が見えた。
今度は何だろう?と私は起き出してベランダの傍から外の様子を伺ってみた。
パトカーだった。
それに二台か三台、普通の車も従えて狭い道路に止まっていた。
池を明るく照らし、ボソボソと抑えた声で何か話声が続いていた。
明けてから知った事だけど、どうやら隣家の主人は亡くなったようだ。
池の中かその周りで亡くなっていたそうで、
警察が来てたいそうな事だったと同じ階のオバサンから聞いた。
そうなんだ。
隣家の人とは特に交流もなく、本当に不謹慎だけど、
正直なところこれで静かになったとさえと思う。
そう、交流と言えばあの夜の女性がこっちを見て笑いかけたぐらいのもの。
考えてみれば、それもちょっと奇妙な感じがした。
隣家の家族構成は分からない。
隣の離れに息子夫婦が住んでいるなんて、全く以って私の勝手な想像だった。
隣家の主人にしたところで生垣に阻まれて、その姿をちゃんと見た憶えがない。
小柄なオヤジでたぶん、道ですれ違っても分からなかっただろう。
その家の人と初めて関わった日にその家の主人が亡くなった。
正確にはその頃すでに亡くなっていたのだ。

そんな事もさして長くは気にならず、私は平穏な夜を過ごしていたけど、
ある日の真夜中に「バン」という音に目が覚めた。
びっくりするほど大きな音がして、半分眠りの中にいたのだけど
「突風でも吹いたのだろう」
またそのまま眠りについた。
明朝ベランダに出て、さっそく一服するとベランダのちょうど出入口のところが丸く濡れていた。
これもさほど気にはならなかった。
そう、最初の一回目は。
夜中か明け方に軽く雨でも降り込んで、ここだけ乾かずに丸く残っているのか。
あるいは隣室の室外機の水が何かの拍子にこんな風に流れこんでくる事もあるのかも知れない。
越して来てまだ日が浅いので自分の部屋にどんな事があるのか分からない。
それが二度、三度。
「バン」濡れてる。
「バン」濡れてる。

少し気味が悪くなった時に思い出したのは隣家の娘さん。
娘さんと思えたのは若い女性に思えた事から。
さっき言ったようにお隣の家族構成など私は知らない。
目は見開いて、口だけを真横に裂けるように拡げて笑った。
愛想笑いというより、イタズラっぽく笑いかけたように感じられた。
私にはむしろ愛嬌に見えた印象があったけど、
目が笑ってないというのはきっとあんな状態をいうのだろう。
ただ、こうしてベランダから改めて見てみると、ちょっとおかしいのだ。
こっち側に面した隣家のサッシガラスは
おそらく私の部屋のそれよりも長く見える。
生垣越しに部屋の中を確認できたという事は部屋のかなり奥に座っていなければならないだろう。
電気が消された部屋の中である。
そうだとすると、暗くてとても確認できない。
そうでないとすると、サッシガラスのすぐ脇に立っていた。
小柄な私が自室のサッシガラスを仰いで思うに、
そうであれば身長は180センチ、
もしくはそれ以上の位置に顔が来なければならないという事になる。
ちょっと綺麗な若い女性が座っていたように見えたのだけど、案外男性だったのかも知れない。
男性だったら、それぐらい背の高い人はざらにいる。
でも、何より奇妙なのが目の悪い私がどうやって裸眼でそれをはっきり確認できたのか?
この距離だったら人の顔はおろか、表情まではぼやけて確認できるはずもないのだ。
ましてや暗い部屋の中で何も見えないはず。
それが私の中では顔立ちまでがはっきり記憶に刻まれている。
つまり、目で見えたものじゃなく何か違うもので直接それを感じた。
そんな事を思うと急にゾッとした。
そもそも主人が死んでいる夜に、
なぜその人は暗い部屋にじっと佇んでいたかが奇妙に思えてならない。

話はそれで終わらなかった。
真夜中にふと目を覚ますとカーテン越しのベランダに何かがゆらゆら揺れているのが見えた。
ベランダにはカポックの鉢植えが置いてあって、
それが風に揺れているのかと思った。
元はあまりの可愛さにマーケットで買ったミニチュア植物で、
それがすくすくと成長して今では私の胸の位置ほどもある。
ベッドから見るとその先端がサッシガラスのちょうど半分から上。
ハーフサイズのカーテンにかかったほどに見える。
ぼんやり眺めていると、それはゆらゆらと伸びてきてサッシガラスを「バン」と叩いた。
カーテン越しではあったけど、背丈はちょうど私と同じぐらい。
裾を短くしたショートボブみたいな頭の形で「バン」とサッシガラスを両手で叩いた。
それから私は音と共に気を失ったのか記憶がない。
ガラスを叩く手の形だけははっきり覚えている。

明朝ベランダは丸く濡れていた。
そんなバカな話を誰にも言えなかったけど、姉から電話があった時にそれを話してみた。
「それは何かあるかも知れんなあ」
姉はしんみりと聞いて、そう応えたけどすぐに自分達の近況とか、
周りの近況などへと話題は変わった。
次の日の夕方にまた姉から連絡があった。
正確には何度もあった着信に気づいて私がかけ返した。
「すぐにこっちに帰ってきなさい。それから、何があっても絶対にベランダには出るな」
姉の口調は尋常ではなかったけど、私にしたって事情はある。
「姉ちゃん、無茶言わんでや。ウチにも仕事があるし、それに洗濯もできんやん」
姉とは六歳年が離れていて、幼い頃からよく私の面倒をみてくれた。
年が離れているせいか、ほとんどケンカなどもした事はなかった。
私にはまるで母が二人いるようだった。
ただ、この人はそう言い出すと絶対に引かないのだ。
それに尋常な口調じゃない。

結局、仕方なく姉のいう事をきき、私は実家の急用だと職場に告げて地元に帰った。
私と姉は二人姉妹で両親の仏壇は姉が守っていた。
それもそのはず、姉は実家の菩提寺の次男坊と同級生でそこに嫁いだのだから。
私はすぐさま、ダンナの実家。
つまり菩提寺に連れて行かれて長いお経を施される。
両親が健在な頃は毎月住職が来て
仏壇にお経をあげてもらっていたが、どうも私はこれが苦手だった。
足は痺れて、一種のストレスが蔓延する。
姉はその頃から大人しく合掌して、じっとそれに付き合っていた。
寺を継いだのはお兄さんの方でダンナは普通の勤め人だけど、
姉には寺社関係に属する素質があったのだろうと今にして思う。
住職。つまり姉のダンナのお父様は今も健在で
しばらく見ないうちにずいぶん年をとったように見えた。
毎月顔を合わせて愛想よく、頭など撫でてくれた人だけど年を取ると言い知れないカンロクがあった。
住職と言っても実際は長男が引き継いでいて、
「先代住職」という事になるのだが、今は「大僧さん」と呼ばれている。
今回の事はその「大僧さん」でなければ手に負えないような事らしい。
異界の者は水に関する。
あるいは隣家の土地に関する何かだろうと思えるが何かは分からない。
私の住む部屋は両親、ご先祖様に守られていて、
その「何か」が中に入ってくる事はできないのだが、
間違っても招き入れてはならないと言われた。
夜には決してベランダに出てはならない。
挑発されても決して相手をしてはならない。
それから、しばらくのうちはなるべく水の溜った所に近づかない事。
できればその部屋を引き払った方が一番いいのだけど
何かしたわけでもないし、少しばかり「縁(えにし)」を持ってしまっただけのものであろう。
相手にしなければ、諦めてどこか他に目を向けるだろうと大僧さんは言った。
それから護符のような物を書いてもらい、
これを肌身離さず持っているようにも言われた。
姉の心配をよそにキリがないので私は故郷を後にしたけど、
それっきりオカッパは現れず「バン」もなくなった。

聞くところによると、昔それに似た案件が菩提寺の方にはあったらしい。
それは今でも口にはできない事だそうだけど。
隣家の主人が庭の池で毎夜いったい何をしていたのかは分からず仕舞いだった。
私はそれきり昼間にベランダに出てもなるべく隣を見ないようにして、
夜はベランダのサッシガラスを決して開けない。
喫煙は構わず、部屋の中でバカバカ吸うようになった。
そうしてこの部屋にまだ暮らしている。

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