おやしろさん

 空は晴れわたって高く、そしてどこまでも青く澄みきっていた。 そのただ広いだけの青色の中で舞う鳶のピロロロという声が遠く響き渡る。
 稲穂の匂いなのか、泥の匂いなのか。田園地帯の特有の匂いの中で私は深く呼吸をする。
 こうしてずっと向こうに見える山の、そのまた向こうまでが私の所有するものだなんて思えばここで初めてその実感がわいた。

 都会で会社勤めをしていた私の元に、ある日母から連絡があった。
 母方の祖父が私にどうしても会いたがっているので、明日にでも一緒に帰省できないかと、また勝手な事をいう。
 この人ときたらいつもそんな調子で、相手の都合も考えないで自分の言いたい事だけをいう。
 それがどこか調子外れで子供じみていて、傲慢さというものとはまた違う感じを与える。いわゆるテンネンというヤツだ。
 そんな事を急に言われても仕事もある事だし、当然の事ながらいつも通り、私は笑い飛ばして一蹴した。 そしたら母は異様にしつこい。
 いったい何なのか? おじいちゃんの容態でも悪いのか?と聞くと、悪いのはおじいちゃんじゃなくてタケオ兄ちゃんの方だという。  
 は? 会いたがってるのはおじいちゃんでしょ? それで入院してるのはタケオ兄ちゃんでしょ? 何で私がいますぐ帰らなきゃならないの? タケオ兄ちゃんそんなに悪いの?
 タケオ兄ちゃんというのは母の兄の長男。つまり私の従兄にあたる。 いくつか年も離れていて、幼い頃などはよく遊んでくれたり面倒もみてくれた優しいお兄さんのようなものだった。
 そのタケオ兄ちゃんの具合が悪い事はいま初めて聞いたのだけど、私が行ってどうなるものでもないだろうに。
 どうこう言いながらも母があまりにくどいのと、その様子から見て何かただ事ではないのだろうと思え帰省する事になった。

 母の実家に着く前にその途中で従兄のいる病院へと立ち寄った。  
 タケオ兄ちゃん、久しぶりね
 従兄は落ちくぼんだ目を半分ほど開けて私を見る。まるで顔に空いた二つの穴の中からこちらを覗き込むように見えた。 肩は痩せて頬は扱け、骨格が露わに分かる。
 ここに横たわるのがあの従兄ではなく、九十に近い祖父ではないのかと思えた。
 そして彼は私を見て枯れ枝のような指を微かに跳ね上げた。 本当は手を伸ばしたかったのだろう。
 目が半分しか開かないのは奥に落ち込んで瞼が開かないのだろう。 急に胸が熱くなって、私はその指を握りしめた。
 傍らで伯母さんが「大丈夫。もう大丈夫だから」と囁いた。  
 大丈夫よ。必ずよくなるわ
 私も涙ぐんで囁いた。
 タケオ兄ちゃんはどう見ても長くはない。
 ヒイヒイと引き攣るような呼吸をして、私の手の中で「タスケテクレ」と言ったような気がした。
 母の話はいつも要点がどこかに行ってしまっている。つまり、祖父は「もう長くはないタケオに一目会いに来てやって欲しい」と言っただけではないのだろうか。

 その夜私はちょっと不気味な夢を見た。
 薄気味悪いようでいてどこか温かい。 背景はハッキリしないけど、それはごく日常の中で会社の女子更衣室かも知れない。私の住む部屋の中かも知れない。  
 ヨイヨイ。ヨウカエッタ
 女の人の顔だけがぼわっと浮かんでいて笑いかけ、そんな風な事を言われたような気がする。
 最初、私は祖母かと思った。年齢がよく分からない。
 例えていうなら、見覚えのない親戚のオバサンに親しく話かけられた感じだった。
 もはやこれは人ではないのだろう。顔しかなくて、体がないのだから。
 気味悪いけど怖いという感情とは違う。顔の周りは微かにほのめいている。
 その灯りでここがどこなのか断定できそうなのだけど、やはり真暗がりの部屋の中なのだ。
 祖父。祖母はすでに他界していなかったが母と伯父。 それからよく知らないけど見た事あるような親戚のおじさんが集まっていた。

 お面の事を憶えているか?
 お面? 何のお面?
 ……ああそうだ、たしかタケオ兄ちゃんと最後に会った頃。
 私が十七歳の時にも一度祖父から同じ質問をされた事があった。 その時、何と答えたのかまでは覚えていないが同じ事を訊かれた事は思い出した。
 この家の仏間の押し入れはよくあるような襖ではなく、木でできた引き戸になっていた。
 幼い頃にそこにはいつも綺麗な女の人がいて、私を見ると優し気にニコリと笑いかけた。
 祖父の家。母方の家系には親族が多い。
 私から見て誰にあたるのか分からない人がそこに住んでいても何の不思議もなかった。

 いつしか私は気がついたのだった。
 それは女の人がそこにいるわけではなく、お面が引き戸に張り付いていたのだと。
 だけどお面は私を見て、いつもニコニコ笑った。
 表情があるから幼い私には、そこに女の人がいるものだと思えたのだろうか。
 それがお面だったと気づいた時というのは、ある時それが仏間の真ん中で宙に浮いていた事からだった。 今の今まで忘れていた。
 高校生の時に同じ事を訊かれて、たぶんその時は覚えていなかったのかも知れない。  

 ああ、仏間のお面の話でしょ? よくそんな事覚えてたわね。
 逆に私が祖父や伯父に対して感心する。
 よくそんなン十年も昔の子供の戯言など、ちゃんと覚えていたものだ。
 確か私は母や祖父に、あるいはまだ健在だった祖母にその事を話したのだ。
 あそこにお面がいてね。笑いながらふわふわ浮かんでるの
 たぶん、そんな調子だったように思う。幼い子の言う事なのだ。
 だけど私はそれまで、そこに女の人が住んでいて、それはきっと親戚の誰かなのだろうと思っていたのだ。
 それが仏間の真ん中で、まるで天井から吊るされたように浮いていた時に初めてお面だと気がついて大人達に報告した。
 その時の祖父母や母の反応は今でもよく覚えている。 みんな一斉に黙りこくったかと思うと顔を見合わせた。
 母だか祖母だかがその時、祖父に小声で何かを言った。
 祖父はそれを制するような素振りを見せ、そのあと黙って目を閉じながら頷いていた。
 私は何か悪い事をしてしまったような気分になり、叱られるかと泣き出しそうになる。
 そしたら祖父が「そうか、お面があったのか」みたいな事を言って私を撫でたような気がする。

 本当に今まで忘れていた。
 確かに思い出した事も何度かあったが夢の記憶だとばかり思い込んでいた。
 このお面だな?
 祖父は薄い木箱を取り出すと私の前に出して中を見せる。
 こんなに塗装も剥げて擦り切れてはいなかったけど、確かにそこにあった一枚の能面に間違いない。
 能面は髪や頬が擦り切れて、ところどころ木目が出てはいたけれど、見た瞬間に金色の歯を見せて今もやや頬を上げて笑ったように思えた。
 仮にあの頃に見た時は肌も透けるように白く、髪も真っ黒でつやつやしていたけど、なぜ怖いと感じなかったのだろう。
 どう見ても能面なのだ。
 一瞬笑ったように見えたせいなのか、今見たらゾクッする薄気味悪さを感じた。というよりも、この劣化具合。
 私が幼かった十年や二十年前ぐらいの古ぼけ方ではないだろう。
 もちろん、仏間の引き戸に飾ってあったわけでもなく、実際にはそんな所にそれは存在しなかったのだ。
 木の箱にこのように大事に保管されていて、たぶん江戸時代とかずっと昔の物に違いない。  

 おやしろさんの仰せじゃ、そうするしかあるめえ
 祖父や伯父、それによく知らない親戚の人達はそんな事を話し合っていた。
 かくして私は会社を辞めてこの土地に帰って、この家の家督を継ぐという事になったのだ。
 祖父がこの事に深くこだわったのは、祖父もまた幼少の頃にこのおやしろさんが笑う表情を見ていたからだという。
 ところが実際に家督を継いだのは祖父の兄。つまりこの家の嫡男だった。
 そして、その嫡男はほどなくして亡くなったのだと言う事だった。
 私の知らない少し前の事。
 親戚一同の中で祖父亡きあとに誰がこの家を継ぐかという話合いがなされたという。
 その時祖父は幼い私がお面の話をしていた事を憶えており、強く私を呼び返してここで婿を取らせるよう推していたそうだ。

 しかしながら、今時そんな迷信じみた話。
 第一、都会生まれの都会育ちで右も左も分からない女の子に家長が勤まろうはずもない。
 家督は伯父ではなく、私からみて従兄にあたるタケオ兄ちゃんにという話になった。
 長兄の嫡男であり、ここで生まれ育ってなにより真面目で誰からも愛されるおおらかな性格を持つ。
 祖父はそれでも「おやしろさんが名指したのだから」と譲らない。
 では、タケオ兄ちゃんに家督を継がせて私をその嫁に取るという事ではどうだろうかと。
 従兄妹同士では四親等にあたるので法的には問題ない。だが、しかし血が濃くなるのはよくない。
 ほどなくそのタケオ兄ちゃんは体を壊して、原因もよくつかめないままに入退院を繰り返すようになった。
 病院も転々とした挙句に先日、医師から手の施しようがないと宣告を受けた。    
 このままではタケオは必ず取り殺されてしまう。
 タケオを死なせないためにも私を呼び戻すしかないと、実際兄を失った祖父は今度こそ譲らない。家督はすぐさま祖父から私へと譲り渡された。
 正式には法的な手続きがまだ一年ほどかかるそうだけど。

 そしたらどうした事か、タケオ兄ちゃんの容態は急に良くなり退院して自宅で療養している。つまり、現在ここで同居している。
 今では自分で歩いて、近場だったら散歩ができるほどに回復した。食欲もある。
 私はここでタケオ兄ちゃんと結婚してこの土地を守って行ってはくれないかと祖父や親戚、母からも言われた。
 なるほど、あのお面はこの家の神様みたいなもので、ずっと昔からその神様に選ばれた者が次の家督を継ぐ。
 後に祖父から聞いた話によれば、ここは代々続く大地主のようなもので確かに今でも山や田を所有している。
 そうしてこの家は今でいう占い師の家系みたいな事も兼ねていて、それに用いられたのがあの能面だという話だった。
 今ではその手法、舞いも途絶えたのだが、おやしろさんが名指した者が家督を継ぐ事でこの家は今も栄えている。
 そんな事情があったのかと言い聞かされた。

 だけど、それとこれとは話が別だと私は断った。
 そりゃあ、そうでしょ?
 今までのまあ、わりと自由きままなOL生活から急にこんな片田舎に連れ戻された挙句に結婚相手まで決められる。
 タケオ兄ちゃんは好きだけど、従兄妹同士というと何だか血が濃くて私も嫌な感じがする。
 勿論どこか納得いかないけど、それでもその後で「考えておく」とまでは訂正した。
 祖父がかわいそうに思えたのだ。
 いずれにせよ、どう粘っても近いうちに私は誰かと結婚させられるのだろう。
 確かに私もそれほど若くはない年齢になった。
 適当な相手を押し付けられるぐらいなら親族のいう通り、昔から優しいタケオ兄ちゃんの方がマシという考え方も確かにある。
 多少の意識もあるのかも知れないが、まだ病み上がりのタケオ兄ちゃんの世話をしていてそう悪い気もしない。
 空は晴れわたって高く、そしてどこまでも青く澄みきっていた。
 こんなに天気がいいのに、この大空の下でそんな事考えるのはもうよそう。
 少なくとも、都会で暮らしていた私にカレシというものができなかったのが良かったのか悪かったのか。
 それも含めて「おやしろさん」の所業だったのではないだろうか?
 今そんな事をふと思った。

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